第5次大山廃寺発掘調査

第5次大山廃寺発掘調査地点

「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 昭和54年(1979年)3月発行)の中の「図版X C区地形測量図及び遺構概略図」の上にこのホームページ管理人がペイントで書き込んだもの。

1.第5次大山廃寺発掘調査について

2.第5次大山廃寺発掘調査で検出された遺構

3.第5次大山廃寺発掘調査で検出された遺物

4.第5次大山廃寺発掘調査結果

1.第5次大山廃寺発掘調査について

児神社境内

児神社境内。第3次・第4次・第5次発掘調査地点。2018年3月このホームページ管理人撮影。

児神社社務所西側にある大山廃寺駐車場

第5次発掘調査が行われた児神社社務所西側にある大山廃寺駐車場。2018年1月このホームページ管理人撮影。

 第5次発掘調査は、昭和53年(1978年)5月25日から昭和53年(1978年)6月5日の期間に行われた。第5次発掘調査の目的は、第4次発掘調査のとき、社務所西側で検出した掘立柱建物SB05の全体を明らかにすることと、非瓦葺掘立柱建物SB04東部の地形がどのように改変されているのか明らかにすることであった。

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2.第5次大山廃寺発掘調査で検出された遺構

第5次発掘調査で明らかになった遺構SB05・06の図

第5次発掘調査のとき、社務所西側(現在の大山廃寺駐車場)で明らかになった遺構。「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 昭和54年(1979年)3月発行)の中の「図版] 掘立柱建物SB05・SB06遺構実測図」の上にこのホームページ管理人がペイントで書き込んだもの。

 第4次発掘調査のとき、児神社社務所西側で検出されたSB05は、第5次発掘調査により、規格が同じ建物SB05・SB06が重複して建てられていたことが判明した。SB05の柱穴は、全体に30〜40cmと浅く、かなり削平されたもので、柱痕跡や柱抜き取り穴は確認できなかった。SB05の方位は、真北より13度東へふれている。SB05の西妻柱穴と南側柱列東第2柱穴は、SB06の柱穴によって破壊されていることから、SB05は、SB06より古い建物であることがわかる。SB05の東北隅の柱穴は、SK09穴によって破壊されており、SK09穴の中からは、11世紀末(平安末期)の灰釉陶器を含む礫石・瓦片等が大量に出土した。

 SB06は、SB05と同じ規格の建物で、近接した時期にSB05からSB06に建て替えられた。現代の穴によって破壊された西妻側柱穴を除き、柱抜き取り穴は、全て、直径30〜40cmの円形で、中には50cmを超えるものもある。直径30cm前後の柱が立てられていたものと推定できる。方位は、真北より北へ6度30分ふれている。北側柱列東第2柱穴の柱抜き取り穴では、11世紀前半代(平安後期)の灰釉陶器を検出した。非瓦葺掘立柱建物SB04は、SB06と同じ方位で建てられている。従って、SB04とSB06は、ほぼ同じ時期に建立されたものとみなされる。SB06上層では、盛土整地工事が認められ、11世紀末には、建物が造営されていたことがうかがわれる。12世紀頃の建物に伴う巴文軒丸瓦が出土したが、遺構は検出されなかった。SB06上層の整地土上面には、焼土面が見られ、この時期の建物の火災による廃絶がうかがわれる。

 一方、第4次発掘調査のとき検出した掘立柱建物SB04の東部にトレンチを設定して、地業確認を実施した。その結果、古い自然地形に土砂を充てんした平坦地造成作業が確認できたが、作業の時期を確認する遺物は出土しなかった。このトレンチ内の地山をおおう土層面で、柱穴2か所を検出したため、SB04とは別の掘立柱建物の存在も考えられたが、現地形からは、これを追求できる平面がなく、掘立柱建物SB04に関連した建物が他にあったことを推測するにとどまった。

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3.第5次大山廃寺発掘調査で検出された遺物

児神社境内における発掘調査で出土した灰釉陶器の写真

神社境内における発掘調査で出土した灰釉陶器の一部。「大山廃寺発掘調査報告書」(1979年(昭和54年)3月 小牧市教育委員会発行)の中の「写真図版]]W 灰釉陶器」にこのホームページ管理人がペイントで書き込んだもの。

 上の写真の灰釉陶器118は、掘立柱建物SB06の北側柱列東第2柱穴の柱抜き取り穴で検出した遺物である。11世紀前半(平安後期)と考えられる灰釉陶器が出土したため、掘立柱建物SB06の廃絶時期は、下っても11世紀前半となる。

3次発掘調査出土軒丸瓦・鬼瓦の写真

第3次発掘調査にて出土した様々な種類の軒丸瓦・鬼瓦の写真。「大山廃寺発掘調査報告書」(1979年(昭和54年)3月 小牧市教育委員会発行)の中の「写真図版]X 軒丸瓦・鬼瓦」

上の写真のNo.19は、直径19cm左回りの三巴文軒丸瓦で、礎石建物SB02と掘立柱建物SB05・06周辺から各1個体出土した。軟質で黄灰色、胎土に砂粒を多く含む。全体に剥落が著しいが、尾の長い三巴文の周囲に界線を隔てて、珠文を26個めぐらすものと推定される。瓦当側面、裏面は粗いへら削りの後、ナデ調整される。丸瓦部との接合は、印籠つくりによると考えられる。この三巴文軒丸瓦は、12世紀頃の建物に伴うものと考えられる。しかし、掘立柱建物SB06上層において、11世紀末に盛土整地工事が認められるものの、この三巴文軒丸瓦に伴うと考えられる遺構は検出されていない。また、掘立柱建物SB05・06と同時に進められた掘立柱建物SB04東部の調査において、遺物は検出されなかった。

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4.第5次大山廃寺発掘調査結果

第5次大山廃寺発掘調査地点

「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 昭和54年(1979年)3月発行)の中の「図版X C区地形測量図及び遺構概略図」の上にこのホームページ管理人がペイントで書き込んだもの。

 10世紀末から11世紀前半頃、現在の児神社境内と社務所西側には、非瓦葺掘立柱建物SB04と非瓦葺掘立柱建物SB06が建てられていた。非瓦葺掘立柱建物SB06は、SB05の規模・構造を同じにして、建物の向きを非瓦葺掘立柱建物SB04に合わせて、背後の山肌に沿うように直して建て替えられた。11世紀末になると、現在の社務所西側にあった非瓦葺掘立柱建物SB06付近や非瓦葺掘立柱建物SB04東部で何らかの建物の造営が行われたらしいが、はっきりしたことはわからない。11世紀末の児神社境内には、金属溶鉱炉とその関連施設SK03・04があった。そして、非瓦葺掘立柱建物SB06の上層の整地土上面に焼土面が見られることから、11世紀末以降の時期に、非瓦葺掘立柱建物SB06は、火災によって廃絶したことがわかる。

ところで、非瓦葺掘立柱建物SB06は、直径30cm前後の柱が立てられていたが、建物の規模に比して大きな柱が立てられていた。非瓦葺掘立柱建物SB06は、どのような建物だったのだろう。このホームページ管理人が考えたその答えは、「作品集」(法灯を継ぐもの1)のページに書かれてあるので、ぜひ、お読みください。

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