第4次大山廃寺発掘調査

第4次大山廃寺発掘調査地点

「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 昭和54年(1979年)3月発行)の中の「図版U大山廃寺付近航空測量図」の上にこのホームページ管理人がペイントで書き込んだもの。

1.第4次大山廃寺発掘調査について

2.第4次大山廃寺発掘調査で検出された遺構

3.第4次大山廃寺発掘調査で検出された遺物

4.第4次大山廃寺発掘調査結果

1.第4次大山廃寺発掘調査について

児神社境内

児神社境内。第3次発掘調査及び第4次発掘調査地点。2018年3月このホームページ管理人撮影。

児神社社務所西側にある大山廃寺駐車場

第4次発掘調査が行われた児神社社務所西側にある大山廃寺駐車場。2018年1月このホームページ管理人撮影。

 第4次発掘調査は、昭和52年(1977年)8月25日から昭和52年(1977年)9月30日の期間に行われた。この調査期間中には、台風の襲撃を受け、遺構が冠水する事態もあったが、ほぼ予定通りの範囲の調査を終えることができた。第4次発掘調査では、第3次発掘調査において発見された礎石建物SB03や石積列等の全体を明らかにするとともに、礎石建物SB03や石積列等と重なる、更に古い遺跡を明らかにすることを目的とした、児神社境内の全面発掘が実施された。また、社務所西側の平坦地が古くから存在したものであるという地元の方々の証言をもとに、社務所西側の平坦地の発掘調査を実施し、遺構を検出した。

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2.第4次大山廃寺発掘調査で検出された遺構

第4次発掘調査で明らかになった遺構の図

第4次発掘調査で明らかになった遺構。「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 昭和54年(1979年)3月発行)の中の「図版X C区地形測量図及び遺構概略図」の上にこのホームページ管理人がペイントで書き込んだもの。

<児神社境内>

(SB04)

平安期の掘立柱建物

掘立柱建物SB04の図

「大山廃寺発掘調査報告書」(1979年(昭和54年)3月 小牧市教育委員会発行)の中の「図版[ 掘立柱建物SB04遺構実測図」に管理人がペイントで書き込んだものである。

SB04身舎の写真(東から)

「大山廃寺発掘調査報告書」(1979年(昭和54年)3月 小牧市教育委員会発行)の中の「写真図版[ C区 SB04 身舎(東から)」に管理人がペイントで書き込んだものである。

 平安期の掘立柱建物SB04は、児神社拝殿前の地山面(人工的ではない自然のままの地盤)で検出された東西棟の掘立柱建物である。この建物は、桁行5間・梁行2間の大きさの身舎で、西と北に庇が付く。

 まず、身舎の部分の説明をする。身舎とは、家人が日常生活を送る建物で、「離れ」に対する「母屋」のことである。身舎の大きさ「桁行5間・梁行2間」とは、どのくらいかというと、1間が約1.8mで、畳1枚の長い方の大きさと同じ(畳1枚の短い方の長さは、長い方の長さの半分、つまり半間である。)なので、畳20枚を敷き詰めた大きさが、「桁行5間・梁行2間の大きさ」となる。柱穴の底面の高さは、南の列と北の列を比べると、南の列の方が低く、段差があるが、東の列と西の列を比べると、ほぼ同じ高さとなっている。建物の向きは、まっすぐ南を向いているのではなく、若干、西を向いている。

 一方、庇の部分についてであるが、庇とは、家の窓や出入り口の上に取り付けられる日よけや雨よけ用の小型の屋根のことである。平安期の掘立柱建物SB04の庇の柱間は、身舎の柱間に比べて、ややばらつきがある。また、身舎の柱筋にのらない柱穴が多く、庇の出が3.8〜4mと広い。「大山廃寺発掘調査報告書」(1979年(昭和54年)3月 小牧市教育委員会発行)は、次のように述べている。

「北側に庇を設けると裏の軒が低い構造となり、全体をひとつづきの仏堂としては、使用しにくいという問題点がある。したがって、身舎には床を張り、仏堂として使用し、庇部分を土間にして、付属的に居住空間または物置などとして使用されたかもしれない。東や南西には、地山の傾斜がみられ、物理的制約があったため、北と西に庇を設ける形をとったことも予想される。」

 ここで、平安期の掘立柱建物SB04の留意点を3つあげる。

1.SB04は、10世紀から11世紀前半ころ(平安時代、中央では藤原氏による摂関政治が行われ、地方政治が乱れて武士団が発生した時代)に建てられた非瓦葺掘立柱建物である。(掘立柱建物SB04の年代が確定したのは、第5次発掘調査の後であるが、あえて、第4次発掘調査のページにおいて、紹介しておくこととする。)

2.SB04の一部は、火災にあっており、火災が、SB04の廃絶の一因と考えられる。

3.SB04は、建て替えが行われておらず、短期間で廃絶されたことも想定される。

(SK03・04・05)

平安期の古代たたら

平安期の古代たたらSK03・04・05周辺実測図

平安期の古代たたらSK03・04・05周辺実測図。「大山廃寺発掘調査報告書」(1979年(昭和54年)3月 小牧市教育委員会発行)の中の「図版\ C区B1造成面土抗・石積列実測図」に管理人がペイントで書き込んだものである。

平安期の古代たたらSK03・04の写真1

平安期の古代たたらSK03・04の写真1。「大山廃寺発掘調査報告書」(1979年(昭和54年)3月 小牧市教育委員会発行)の中の「写真図版\ C区 土抗、石積列 東から」に管理人がペイントで書き込んだものである。

平安期の古代たたらSK03・04の写真2

平安期の古代たたらSK03・04の写真2。「大山廃寺発掘調査報告書」(1979年(昭和54年)3月 小牧市教育委員会発行)の中の「写真図版\ C区 土抗、石積列 南から」に管理人がペイントで書き込んだものである。

平安期の古代たたらSK03の写真

平安期の古代たたらSK03の写真。「大山廃寺発掘調査報告書」(1979年(昭和54年)3月 小牧市教育委員会発行)の中の「写真図版]T C区 土抗 SK03 北西から」に管理人がペイントで書き込んだものである。

平安期の古代たたらSK05と中世の石積列SX04・06・07の写真

平安期の古代たたらSK05と中世の石積列SX04・06・07の写真。「大山廃寺発掘調査報告書」(1979年(昭和54年)3月 小牧市教育委員会発行)の中の「写真図版] C区 石積列 SX06.07 北部」に管理人がペイントで書き込んだものである。

平安期の古代たたらと中世の石積列SX06・07の写真

平安期の古代たたら(平安期の古代たたらSK03・04・05周辺実測図の黄色い部分)と中世の石積列SX06・07の写真。「大山廃寺発掘調査報告書」(1979年(昭和54年)3月 小牧市教育委員会発行)の中の「写真図版] C区 石積列 SX06.07 南部」に管理人がペイントで書き込んだものである。

 中世の礎石建物の下には、平安期の掘立柱建物SB04が見つかったが、平安期の掘立柱建物SB04の南前面には、中世の石積列の下に、銅滓・鉄滓を多量に検出した穴があった。そして、これらの穴からは、11世紀末の灰釉陶器が出土している。つまり、11世紀末には、大山廃寺のこの一角に、古代たたら(金属溶鉱炉とその関連施設)があり、そこで何らかの金属製品が作られていた。

 ところで、大山廃寺に古代たたらが存在していた11世紀末の日本の姿は以下のようである。都では、貴族・摂関政治の藤原氏の勢力が衰え、院政が始まった。院政とは、白河上皇に代表されるように、天皇の位を譲った後も上皇(出家したら法皇)となって、天皇の代わりに国の政治を行うことである。はじめは、藤原氏の摂関政治をおさえようとして、行われた院政であったが、藤原氏の勢力が弱まると同時に、院の警備に任ぜられた武士の力が強まり、結果的に、院政が、鎌倉時代以降の武家政権の道を開いた。ところで、院政の白河上皇といえば、「鴨川の水、双六の賽、山法師はわが心にかなわぬもの」(京都の鴨川の水の流れ、すごろくのさいころの目、比叡山延暦寺の僧兵は自分の思うようにならないものだ。)という言葉が歴史に残っている。ここで、僧兵について、説明しよう。僧兵とは、興福寺や延暦寺や園城寺などの武装した僧侶や衆徒のことである。僧兵は、寺の荘園や荘民を守るために置かれたものだが、他の寺との争いも多く、都におしかけて強引に裁決を求めるなど、一般住民には恐れられていた。院は、僧兵に対抗して、院の北面に警備兵を置いた。(北面の武士という。)

(SD01)

平安前期の溝

 平安期の掘立柱建物SB04の北側、即ち、現在の児神社拝殿の石垣に沿って、東西に渡る溝が検出された。この溝の幅は60〜70cmで、深さは15〜17cm、長さは16mであった。この溝は、東と西では高低差があり、東の方が西の方より3cm下がっていた。また、この溝の東西両端は、後世の撹乱や瓦溜り等によって破壊されていた。この溝の向きは、平安期の掘立柱建物SB04の向きとは若干異なっている。溝の中に埋もれた土の中からは、7世紀末〜8世紀初頭の白鳳様式の軒丸瓦T−a類や9世紀末〜10世紀初頭(平安時代に藤原氏が実権を握り、国風文化が栄えた頃)の須恵器が検出された。従って、SD01は、平安期の掘立柱建物SB04とは全く違う時期(平安期の掘立柱建物SB04より前の時期)に掘られた溝であると考えられる。

(SK02)

奈良・平安期の多量の瓦が出土した穴

 平安前期の溝SD01の西の端にあたるところに作られていたもので、奈良・平安期の多量の瓦が出土した、瓦溜めの穴である。平安前期の溝SD01を切って作られているため、平安前期の溝SD01より新しい時期の穴と考えられる。この地域に奈良・平安期の多量の瓦が出土するSK02のような穴が存在するということから、この地域では、7世紀末から8世紀初めにかけて(白鳳文化が栄えた頃)、塔と併行して造営された瓦葺建物があり、その瓦葺建物は、平安初期(8世紀末〜9世紀初め)まで、建物の造営あるいは補修などを継続していたことがわかる。そして、この穴から発掘された瓦を見ると、この地域の瓦葺建物は、9世紀以降には、ほとんど補修も行われず、10世紀頃までには廃絶したものと考えられる。

(SX10)

7世紀後半白鳳時代頃の石積列

 掘立柱建物SB04の身舎から4m東側にて見つかった石積列である。人の頭の大きさの玉石を東に面を揃えて3段に積み上げたもので、高さ40cm、長さ2mのものを検出した。この石積列の西側には、約50cmの厚さの整地土が見られ、この整地土の中から、7世紀後半代の須恵器が出土した。このことから、この地域では、まず、7世紀後半代ころに整地事業が行われ、その後、この整地土の土留用として、石積列SX10が構築されたものと見られる。一方、石積列SX10の東側では、掘立柱建物SB04より一段低い場所に、幅約3mで、版築状にたたきしめられた平坦面が造成されていた。

(SX09)

平安後期の石積列

 掘立柱建物SB04の身舎から4m東側にて見つかった石積列である。人の頭の大きさの玉石を東に面を揃えて2〜3段に積み上げたもので、高さ30〜40cm、長さ4mのものを検出した。この石積列SX09は、現在の手洗い鉢がある手水舎をはさんで、SX10の南側にある石積列である。そのため、調査の当初は、石積列SX09と石積列SX10は同一線上に並んだ一連のものと見られていた。しかし、実測の結果、石積列SX09と石積列SX10は、方位は同じだが、わずかに位置を異にしていて、しかも、双方からの出土遺物の時期が違うことから、石積列SX09と石積列SX10は、別個の遺跡であるであることが判明した。また、石積列SX09の東側の土の中からは、11世紀代の灰釉陶器椀片が検出されている。従って、石積列SX09が構築された時期は、平安後期であることがわかった。

(SX06・07)

中世の石積列

 第3次発掘調査の時、中世の礎石建物SB03の南で、東西に延びる中世の石積列SX04を検出したが、第4次発掘調査では、中世の石積列SX04の西端からL字形に南に延びる中世の石積列SX06・07が検出された。

 中世の石積列SX06は、人の頭の大きさから一辺50cmほどまでの石を4〜5段積み上げたもので、石は、東に面を揃えている。高さは80cmで、9mにわたって検出したが、この石積列の南端は、更に南へ延びていた。この石積列の基部には、大型の石が多く組み込まれている。中世の石積列SX06・07がある地域は、南下がりの地形であるため、この石積列の上面を水平にするため、石積列の南の方ほど石を高く積み上げている。また、この石積列は、中世の礎石建物SB03の西から3番目の柱列の南延長線上にほぼあたる位置にある。この石積列の目的は、西側の造成面盛土の土留擁壁と考えられる。そして、平安時代の古代たたらの跡を埋めるように作ってある点も見逃せない。

 中世の石積列SX07は、中世の石積列SX06から70cmほど東に離れた位置に構築された石積列である。この石積列は、人の頭の大きさの石を東に面を揃えて、積み上げたもので、一部に瓦も混じえている。石積列の高さは、3〜4段、60cmほどが残っていた。また、石積列の長さは、8.5mほどを検出したが、南端は、江戸初期の穴によって、破壊されていた。中世の石積列SX07は、中世の石積列SX06が構築されたのちに、まるで、平安時代の古代たたらの跡を埋めるように、その前面を埋め、造成面を拡大した上で、土留擁壁として、構築されたものと考えられる。

(SX05)

中世と思われる人頭大の石の列

 中世の石積列SX06の北延長線上に近い位置では、人の頭の大きさの石が約2mにわたって、縦列に並べられていた。この石の列SX05は、整地土の上にて検出されたが、石積列の基部であるかどうかは不明である。

<児神社社務所西側大山廃寺駐車場>

(SB05)

平安期の掘立柱建物

掘立柱建物SB05遺構実測図

掘立柱建物SB05遺構実測図。「大山廃寺発掘調査報告書」(1979年(昭和54年)3月 小牧市教育委員会発行)の中の「図版] 掘立柱建物SB05.SB06遺構実測図」に管理人がペイントで書き込んだものである。

児神社社務所西側で発掘されたSB05の写真

児神社社務所西側で発掘されたSB05の写真。「大山廃寺発掘調査報告書」(1979年(昭和54年)3月 小牧市教育委員会発行)の中の「写真図版]U C区 SB05.SB06 北西から」に管理人がペイントで書き込んだものである。

 「社務所西側の平坦地が、古くから存在したものである。」という地元の方々の証言をもとに、発掘調査をした結果、検出された遺構が、掘立柱建物SB05である。第4次発掘調査のとき、地元の方々の証言をもとに調査した当初は、詰み石のような石の集まった部分が乱雑に検出されたが、礎石建物の存在を確証することはできなかった。しかし、地層観察とそれより下に遺構が存在するかどうか確認するために、部分的に、地山面まで掘っていったところ、地山面で、掘立柱建物の柱穴が数か所検出され、SB05という建物の存在が考えられるに至った。このため、掘り下げ部分を拡大して、調査した結果、SB05の全体規模の想定はできた。SB05は、6.9m×4.2mの東西棟掘立柱建物である。そして、SB05の柱穴は、児神社境内で発掘された掘立柱建物SB04の柱穴よりも大規模なものであった。つまり、SB05という掘立柱建物は、建物の広さでは掘立柱建物SB04の身舎よりも狭いが、掘立柱穴の大きさは、逆に、SB04よりも大きいという結果になった。しかし、第4次発掘調査においては、SB05の明確な姿は判明できず、翌年の第5次発掘調査において、再び調査をすることになった。

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3.第4次大山廃寺発掘調査で検出された遺物

児神社境内で出土した軒丸瓦

児神社境内(掘立柱建物SB04北部、SB05、SB06上層)から出土した軒丸瓦の写真。「大山廃寺発掘調査報告書」(1979年(昭和54年)3月 小牧市教育委員会発行)の中の「写真図版]W 軒丸瓦」より。

児神社境内から出土した軒平瓦

児神社境内(掘立柱建物SB04、SB05、SB06周辺とCJ31トレンチ)から出土した軒平瓦の写真。「大山廃寺発掘調査報告書」(1979年(昭和54年)3月 小牧市教育委員会発行)の中の「写真図版]Z 軒平瓦」より。

児神社境内における発掘調査で出土した須恵器の写真

児神社境内における発掘調査で出土した須恵器の一部。「大山廃寺発掘調査報告書」(1979年(昭和54年)3月 小牧市教育委員会発行)の中の「写真図版]]V 須恵器・緑釉陶器」にこのホームページ管理人がペイントで書き込んだもの。

児神社境内における発掘調査で出土した灰釉陶器の写真

神社境内における発掘調査で出土した灰釉陶器の一部。「大山廃寺発掘調査報告書」(1979年(昭和54年)3月 小牧市教育委員会発行)の中の「写真図版]]W 灰釉陶器」にこのホームページ管理人がペイントで書き込んだもの。

 第4次発掘調査においては、児神社境内の奈良・平安期の姿が明らかになったが、第4次発掘調査で出土した遺物の特徴は、奈良・平安期の古代瓦に加えて、須恵器・灰釉陶器・鉄滓・銅滓にある。

(児神社境内出土須恵器について)

 児神社境内における発掘調査では、奈良・平安期の瓦の出土量に比べて、須恵器の出土量が少なく、多くが細片であった。しかし、7世紀末から8世紀にかけての須恵器の出土と白鳳文化の時代から平安初期にかけての各種の瓦の出土によってわかることは、7世紀末から8世紀初頭頃の児神社境内には、塔と並行して、瓦葺の建物が造営されており、その瓦葺建物は、平安初期である9世紀頃までは、造営と補修を繰り返して、伽藍の整備が行われていた。大山廃寺遺跡で出土した瓦の主体を占める部分は、ほぼ、白鳳文化の時代から平安時代前期の間におさまる。須恵器は、8世紀代で全て消滅するわけではなく、少量ではあるが、10世紀初頭まで続く。

(児神社境内出土灰釉陶器について)

 児神社境内における発掘調査で出土した灰釉陶器の量は、須恵器よりはるかに多い出土量であった。灰釉陶器は、10世紀から11世紀にかけてのものが多く出土している。そして、これらの灰釉陶器は、篠岡古窯跡群から供給されている。灰釉陶器は、12世紀中ごろまで連続性が認められるが、12世紀に入ってまもなく衰退が始まった可能性がある。

(鉄滓・銅滓)

 第4次発掘調査では、掘立柱建物SB04の南前面に、SK03・04と名付けられた2つの穴が検出された。そして、2つの穴の中からは多量の鉄滓・銅滓が検出され、同時に11世紀末頃の灰釉陶器が出土した。つまり、11世紀末頃(平安時代末期院政の時代)、児神社境内には、金属溶鉱炉およびその関連施設があり、鉄器や銅器を作っていた。大山廃寺発掘調査の中で検出された鉄製品は、風鐸やくぎ、針、刀子(小刀)の切先部分、少量の何かの鉄片が報告されているが、銅製品が出土したという報告はない。そして、SK03・04一帯は、火災を受けており、火災がこの一帯の建物群の廃絶の一因であると考えられる。

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4.第4次大山廃寺発掘調査結果

 第4次発掘調査の結果について、わかったことと、ますます謎が深まったことと両方ある。

<第4次大山廃寺発掘調査によって、わかったこと>

第4次発掘調査で明らかになった遺構の図

第4次発掘調査で明らかになった遺構。「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 昭和54年(1979年)3月発行)の中の「図版X C区地形測量図及び遺構概略図」の上にこのホームページ管理人がペイントで書き込んだもの。

 現在の児神社境内には、7世紀末以前、何らかの施設が建っていたが、それが、焼失し、7世紀末から8世紀初頭にかけて、塔と並行する形で、瓦葺建物が建立された。この瓦葺建物は、9世紀にいたるまで、造営と補修を繰り返して存続していたが、9世紀以降はほとんど補修も行われず、10世紀頃までに廃絶したと考えられる。

(7世紀から10世紀の日本の歴史)

604年 聖徳太子が十七条の憲法を定める。

645年 大化の改新

672年 壬申の乱 白鳳文化が栄える。

701年 大宝律令

710年 平城京に遷都。奈良時代が始まる。

724年 聖武天皇即位 天平文化が栄える。

743年 墾田永年私財法 公地公民制が崩れ、荘園が発生する。

781年 桓武天皇即位

794年 平安京遷都 平安時代始まる。

842年 藤原氏が政治の実権を握る。摂関政治

894年 遣唐使の廃止 国風文化栄える。

985年 地方政治の乱れと武士団の発生

988年 尾張国の郡司や農民らが国司の乱行を訴える。

 現在の児神社境内に再び建物が造営されたのは、10世紀末から11世紀前半頃である。この時期の建物SB04、SB05は、非瓦葺掘立柱建物であるが、建て替えは行われておらず、短期間で廃絶されたことも想定される。これらの建物は、創建以来の寺院の伽藍とその性格を引き継いだというよりも、全く違う目的で造営された建物である可能性が高い。11世紀末にも児神社境内に建物が造営される。金属溶鉱炉とその関連施設であるSK03・04は、11世紀末の遺構である。そして、11世紀から12世紀にかけて建っていたこれらの建物は、火災による廃絶がうかがえる。

(11世紀から12世紀の日本の歴史)

1000年 藤原氏の摂関政治が最も栄える。

1051年 前九年の役

1083年 後三年の役

1086年 院政が始まる。

1156年 保元の乱

1159年 平治の乱

1167年 平氏政権

1179年 源平の争乱

1185年 壇ノ浦の戦いで、平氏が滅ぶ。

1192年 鎌倉幕府が始まる。

<第4次発掘調査によって謎が深まったこと>

1.大山廃寺の本堂はどこにあったのか?

2.古代たたらが大山廃寺に与える影響

1.大山廃寺の本堂はどこにあるのか?

 地元の言い伝えによると、児神社は、本堂のあった所だという。第1次発掘調査から第4次発掘調査までの結果を見てみると、大山廃寺の一部の施設は、7世紀末以前からすでに児神社境内に存在していて、織田信長による天下統一が始まる16世紀頃まで、連続して児神社境内に存在していたことがわかった。この900年近くにわたる歴史の中で、大山廃寺の本堂が、いつの時代においても児神社境内にあったのかどうかは、わからない。あるいは、大山廃寺の本堂は、時代によってその位置を変えてきたのかもしれない。地元の人々が「本堂が峰」と伝える児神社背後の山の中には、児神社境内の他にも本堂があったと考えられるような広い平地がいくつかある。

2.古代たたらが大山廃寺に与える影響

 大山廃寺の言い伝えによれば、大山寺は、永久年中(1113年〜1118年)に法勝寺から玄海上人が来て、「大山三千坊」とも「五千坊」とも「西の比叡山、東の大山寺」とも呼ばれる巨寺にした。しかし、その弟子の玄法上人の時代に比叡山と法論を生じ、仁平2年(1152年)3月15日、比叡山から僧兵が攻めてきて、僧坊に火を放ち、大山寺は一山丸ごと焼き払われた。第1次から第4次までの大山廃寺発掘調査によると、伝説のある時代(12世紀)に児神社境内に建っていたと考えられる施設は、金属溶鉱炉とその関連施設SK03・04である。しかも、SK03・04からは、多量の鉄滓・銅滓を検出している。つまり、地元の人々が本堂があった所だと言い伝えている児神社境内の発掘調査をしてみたら、言い伝えのある12世紀には、児神社境内には、金属溶鉱炉とその関連施設が建っていて、鉄製品や銅製品の生産活動を行っていたことがわかった。武家政権が誕生する12世紀に、大山廃寺の中の中心とも思える場所に金属溶鉱炉とその関連施設があるということは、大山廃寺にとって、金属溶鉱炉とその関連施設が必要不可欠な施設だということだろう。ここで、生産していた鉄製品や銅製品とは何か?原材料である鉄鉱石や銅鉱石はどこから採集してくるのか?このホームページ管理人が考えたその答えは、「作品集」(法灯を継ぐもの1)のページと大山廃寺の痕跡「旧参道・ダイモン〜西の沢〜女坂」のページに書かれてある。

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