福厳寺

小牧市大草地域の地図

「小牧市遺跡分布地図」(小牧市教育委員会 1991年3月発行)に、このホームページ管理人がペイントで書き込んだもの。赤い数字のものは、現存する埋蔵文化財包含地。黒い数字のものは、滅失した埋蔵文化財包含地。なお、この画面上に見える黒い三角の数字のものは、全て、古窯跡です。

春の福厳寺

福厳寺。2014年4月このホームページ管理人撮影。

 大叢山福厳寺( だいそうざんふくごんじ)は、曹洞宗の寺として、1476年(文明8年)に創建された。当時、大草城の城主であった西尾式部道永が、盛禅という名の僧侶に深く帰依をして、大草山の西北の地の創建に力を尽くした寺である。西尾式部道永は、福厳寺を創建するために、大久佐八幡宮の神域を穢してはいけないと、当時大草の東上の地に建っていた大久佐八幡宮の社殿を古宮という地に遷したと記述している書類が大久佐八幡宮には残されている。盛禅和尚は、西尾式部道永が深く帰依をするほど、道徳的に優れた人物であった、と、「尾張名所図会」は伝えている。

 福厳寺が創建された1476年(文明8年)は、京都の街を戦場として、10年間続いた応仁の乱が終わる1年前にあたる。応仁の乱が終わると、世の中は、群雄割拠・下剋上の世の中になった。この時代、実力のある者は、戦国武将として地方を治め、実力のない者は、家柄が良くても没落していった。地方に戦国武将が現れては消えていくこのような時代が90年ほど続き、織田信長という武将が出現して、全国統一を目指し、その意志は、豊臣秀吉・徳川家康へと受け継がれていく。

 ところで、「尾張名所図会」によると、福厳寺は、1584年(天正12年)、小牧長久手の戦いにおいて兵火にかかり、一旦、廃頽に及んだ、ということである。しかし、1586年(天正14年)に、福厳寺住職であった周省和尚が再建して、やや、もとの福厳寺に戻した、とのことである。(ということは、創建当初の福厳寺は、現在よりも大きな寺だった、ということだろうか。)

 そして、福厳寺が創建されてから120年後、安定した武士の世の中である江戸時代が訪れる。福厳寺は、その後も寺として続き、2014年現在で、538年もの永い間、寺として、存続し続けている。

 ところで、「尾張名所図会」には、福厳寺の二世住職である盛禅が、いかに優れた人物であったかを語るエピソードがいくつか語られている。そのようなエピソードのうち、このホームページでは、2つのエピソードを紹介しよう。

盛禅和尚のエピソード1

 福厳寺がある春日井郡の関田村に篠城宗八という、盗賊を仕事とする者がいた。篠城宗八の仲間は多く、皆、追剥ぎをしたり、人殺しをしたりしていた。延徳元年(1489年)夏、篠城宗八は、疫病にかかって死んだ。それで、篠城宗八の仲間は、盛禅和尚に頼んで、篠城宗八のお葬式をあげてもらうことにした。

 盛禅和尚が、篠城宗八の葬式をあげようとした時、それまで晴れていた空は急に曇りだして、黒い雲が現れ、突然、激しい雷雨が降ってきた。そこにいた篠城宗八の仲間たちは、皆、恐怖におののいたが、盛禅和尚は、篠城宗八の棺の上に静かに座って動かなかった。すると、空中から次のような声が聞こえた。

 「天は、まさに、極悪人を罰しようとしている。しかし、禅師はそのことを許さないようだ。私は、むなしく、去って行こう。」

 そして、天から大きな笑い声が聞こえて、雷雨はやみ、天気は、もとどうりに晴れた。そこにいた者たちは、皆、驚いた。

盛禅和尚のエピソード2

金剛井

山の中腹にある「金剛井」である。2014年4月このホームページ管理人撮影。

 福厳寺の前にある池から本堂に入り、本堂にぶち当たったら、左に折れ、手洗いの水場を左手に見て更に進むと、山にぶちあたる。この山は、もとは、水が乏しい場所だった。盛禅和尚は、ある夜、この山に入り、山の中腹あたりで座禅をしていると、夜明け頃、膝の下より清泉が湧き出てきた。それで、盛禅和尚は、清泉が湧き出てきた場所に石を組んで井戸を造り、用水とした。そして、その用水は、旱魃にも枯れることがなく、今に至っている。人は、この用水を「金剛井」として、名水と賞した。現在でも、「金剛井」の前は、常に水が流れている。

 最後に、福厳寺が所有する文化財のうち、このホームページ管理人がピックアップしたものを紹介する。

福厳寺略図

福厳寺略図。このホームページ管理人がペイントで作成したもの。

陶製宝篋印塔

陶製宝篋印塔(小牧市指定有形文化財)である。2014年4月このホームページ管理人撮影。

 福厳寺を訪れたときに、一番最初に目に留まるのが、この文化財だ。宝篋印塔とは、墓塔や供養塔に使われる仏塔の一種である。(「Wikipedia宝篋印塔」参照。)日本では、石造のものが多く、陶製のものは、極めて珍しい。福厳寺の陶製宝篋印塔は、1836年(天保7年 江戸時代末期)に瀬戸の陶工早梅亭が製作したもので、高さが4mほどあり、全て陶製で、志野の釉薬がかけられている。

陶製宝篋印塔説明板

詳しくは、説明板の写真をクリックしてください。2014年4月このホームページ管理人撮影。

 このホームページ管理人が福厳寺を訪れたときは、ちょうど桜が満開の時期であった。陶製宝篋印塔が太陽に照らされて、なおかつ、背後にある満開の白い桜の照明効果もあって、陶製宝篋印塔が白く光っているように見えた。石造の宝篋印塔とは違って、どちらかといえば、冷たい感じがあるが、美しい。

絹本着色盛禅画像

 1506年(永正3年)、大草城主であった西尾式部道永が自ら描いた、福厳寺の盛禅和尚の像である。盛禅和尚像の上に書かれている文字は、盛禅和尚が、西尾式部道永の描いた絵を讃して、書いたものである。

西尾式部道永の墓

西尾式部道永の墓。2014年4月このホームページ管理人撮影。

 大草城の城主であった西尾式部道永は、岩倉織田氏に仕え、大草城のあった春日井郡の過半を領土とした。そして、西尾式部道永は、盛禅和尚に深く帰依をし、1476年(文明8年)に大草山の西北の地に福厳寺を創建した。福厳寺を創建するにあたって、西尾式部道永は、大久佐八幡宮の神域を穢してはいけないと、当時大草の東上の地に建っていた大久佐八幡宮の社殿を古宮という地に遷したと、大久佐八幡宮に残されている書類には記述されている。それほど、西尾式部道永が当時持っていた権力はすごかったと驚くべきなのだろうか。それとも、大久佐八幡宮の当時の神社の神域は、現在とは比べ物にならないほど大きかったと驚くべきなのだろうか。

 その後、西尾式部道永は、岩倉織田氏の家督争いに巻き込まれて、大草の地を離れ、美濃の国(現在の岐阜県南部)に移って行った。そして、西尾式部道永は、1514年(永正11年)に病気で、86歳で亡くなった。西尾式部道永の墓は、現在でも、福厳寺本堂の裏側に存在する。「玄麟道永大居士」という法名が墓碑には記され、他のどの墓よりも立派な墓なので、そこに行けば、誰にでもわかる。

火渡り神事

 毎年12月の第2日曜日に福厳寺にて行われるイベントで、正式には、「秋葉三尺坊の大祭」という。地元では、「火渡り神事」として、有名である。詳しくは、公式ホームページ「大叢山福厳寺」を参照してください。

池の横にある石造物群

 福厳寺の駐車場から池に向かって歩き、池にたどり着いたら、池の左側に入って行くと、昔は山の中の道であったと思われる道の両側に、下の写真のような石造物群が、本堂まで続いている。これは、福厳寺霊園にある石造物群からの続きであると考えられる。このホームページ管理人が作成した、上にある福厳寺略図を見てほしい。つまり、福厳寺と福厳寺霊園を分断している国道155号線(4車線道路)ができる前は、福厳寺霊園と福厳寺は、一つの山の中にある特別な空間であった、と考えられる。

 福厳寺と福厳寺霊園を分断して、春日井市と小牧市を結ぶ国道155号線ができたのは、このホームページ管理人が桃花台ニュータウンに引っ越してきた2000年(平成12年)より後の時代の話だったと記憶している。福厳寺と福厳寺霊園を分断する国道155号線ができたことにより、桃花台ニュータウン地域の車の渋滞(朝は特にひどい。)は緩和され、春日井市と桃花台ニュータウンが近くなったことは言うまでもない。しかし、福厳寺霊園にお墓を持っていて、毎年、墓参りに来ている人たちにとって、あるいは、福厳寺を心のよりどころにしている人たちにとって、この国道155号線の貫通というのは、どうなんだろう?便利になったと思うのだろうか?それとも、雰囲気が台無しになったと嘆くだろうか?

池の横にある石仏

池の横にある石造物群のうちの1つの石仏。2014年4月このホームページ管理人撮影。

池の横にある石造物群

池の横にある石造物群。2014年4月このホームページ管理人撮影。

池の横にある石造物群の向かいにある石造物群

池の横にある石造物群の向かいにある石造物群。つまり、山道を挟んで、石造物群が2つ存在している。2014年4月このホームページ管理人撮影。

福厳寺霊園

福厳寺駐車場から福厳寺霊園を望む。前を横切っている道路が、国道155号線。左へ行くと小牧市へ、右へ行くと春日井市へ。2014年4月このホームページ管理人撮影。

福厳寺霊園から福厳寺を望む

福厳寺霊園から福厳寺を望む。2014年4月このホームページ管理人撮影。

国道155号線その1

前を横切っている道路が、福厳寺霊園と福厳寺の間に建設された国道155号線。正面に見える山の中に石造物群がある。2014年4月このホームページ管理人撮影。

国道155号線その2

春日井市から福厳寺の前を通り、小牧市桃花台ニュータウンの城山地区に向かう国道155号線。2014年4月このホームページ管理人撮影。

<参考文献>

「新しい歴史」(株)浜島書店 2001年12月発行

「小牧 中学校編」小牧市教育委員会 2007年(平成19年)3月発行

「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」波多野 孝三著 平成13年7月発行

「東春日井郡誌」大正12年(1923年)1月発行
「尾張名所図会 後編 巻四」岡田啓・野口道直共著 小田切春江編纂 明治13年(1880年)発行