石碑2−10

石碑2−10

2004年7月御嶽神社にて、このホームページ管理人撮影。

125×87×29(台座 37×120×65)

(高さ×幅×厚さ、単位cm)

(中)「覚正霊神」(左)「登山三十三度記念碑」

(裏)「心願講村名 大草 名栗 廻間 神領 野口 高蔵寺 堀之内 上野 下條 白山 味碗 細野 神屋 大山 神尾 入鹿 廻間 松本□吉 名栗 冨田清助 野口 稲垣傳□ 大草 西尾代吉 仝(同の俗字 人冠に工) 秦野儀平 筆者 上の 加藤仙 大草 川西栄一 石工 神や 大の利 明治二十九年十二月建立 大社長 亀谷政吉」

(台座)「右廻間 大草 亀谷為蔵 仝(同の俗字 人冠に工) 安藤籐三郎 名栗 冨田弥右エ門 仝(同の俗字 人冠に工) 冨田久左エ門 仝(同の俗字 人冠に工)冨田久右エ門 高蔵寺 松本五左エ門 仝(同の俗字 人冠に工)松本定七 仝(同の俗字 人冠に工) 松本鉄重 仝(同の俗字 人冠に工) 稲垣徳左エ門 仝(同の俗字 人冠に工) 共田重治朗 神領 永草武左 仝(同の俗字 人冠に工) 永草茂七 仝(同の俗字 人冠に工) 津田政助 野口 河田角右エ門 仝(同の俗字 人冠に工) 永井庄三郎 仝(同の俗字 人冠に工) 河田政右エ門 仝(同の俗字 人冠に工) 永井銀右エ門 仝(同の俗字 人冠に工) 河田庄蔵 堀之内 伊藤□右エ門 仝(同の俗字 人冠に工) □谷田□郎 西山 杉本吉彦 仝(同の俗字 人冠に工) 伊藤善八 細野 小林清八 大山 稲垣久三郎 神屋 稲垣新三郎」

(□は一字の判読不能文字、仝(同の俗字 人冠に工)は「新明解漢和辞典」 長澤規矩也編 (株)三省堂 昭和49年(1974年)4月発行による。)

「亀谷正敏氏の曾祖父政吉の碑である。政吉は、心願講の先達で、最盛期には信者が千人を越えていたといわれるほど多くの人から慕われ、県神道事務所(神社庁)から大社長の称号を拝命した方である。碑が完成し、供養するときには、大草村では一日休日にして村中で祝ったといわれている。ところで、亀谷正敏氏の家には、覚明霊神(春日井市牛山の生まれの人で、御嶽信仰を世の中に普及させた人)の御歯が保存されており、庭には祠を建てて、屋敷神として熱心に祀っている。正敏氏の3人の兄弟が戦争に参加した際、命拾いをし、無事生還したのは、御嶽様の御加護のおかげではないかと考えている。」(大草 亀谷正敏氏 調査時年齢73歳談)

覚明霊神の御玉(御歯)について

 御嶽信仰を世の中に普及させることに努めた覚明霊神は、御嶽山の登山道改修事業の途中で病に倒れ、天明6年(1786年)6月20日御嶽山の二の池の畔で亡くなった。そして、ミイラ化したその遺骸は、信者たちによって9合目に葬られた。その場所が現在の覚明堂である。

 その当時、岐阜県戸刈村の安藤直一という人が、13回目の登山のとき、何度か白骨前に座り、御玉(御歯)を頂くように懇願したが、取ることができなかった。14回目の登山のとき、「老齢であるから最後のお願いです。」と手を差し出したところ、手の上に御歯が落ちた。そこで、ありがたく御歯を受け取り、家に持ち帰り、お祭りした。

 しかし、その後、明治初年頃より安藤家親族に諸病気があった。安藤家では、登山道中に安藤家で休んでいた尾張心願講先達十八ヶ村信者一同に依頼して、御歯について、どうしたらよいか覚明霊神にお伺いをたてた。お伺いをたてたところ、覚明霊神は煙がいやになったので、尾張の御山に行きたいとのことであった。そこで、御歯は、尾張の内津山にお祭りすることになり、明治七年旧八月十八日午後七時内津村御嶽神社堂にお祭りした。

 その後、御歯は、大草村の御嶽神社へお祭りした。しかし、御嶽神社は無用心のため、大社長亀谷政吉宅へ移して、お祭し、今日に到っている。「第一無情の風を嫌う 不浄の矢を控え、人民救ひ、守護神」と書かれてある。(大草 亀谷正敏氏所蔵古文書より抜粋)

参考文献

「小牧の文化財 第17集 小牧の御嶽信仰の石造物」小牧市教育委員会 平成11年(1999年)3月発行

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