グラフを作る

小牧市遺跡分布地図裏にある一覧表の篠岡古窯跡群一部分

小牧市遺跡分布地図裏にある一覧表の篠岡古窯跡群の一部分を2017年12月このホームページ管理人がスキャナーで写す。

 小牧市遺跡分布地図裏にある一覧表には、遺跡番号(市)が295あるのだが、遺跡の種別が古窯跡となっているものは、遺跡番号187〜295までの間にある。そして、平野古窯跡(林地区)と久捨古窯跡(大草地区)以外の古窯跡は、篠岡1号窯〜篠岡112号窯となっている。篠岡1号窯〜篠岡112号窯は、所々、番号が抜けているので、1991年(平成3年)の段階で、小牧市教育委員会が確認している全ての古窯跡を数えると、109基になる。(数字が抜けている5基の理由は不明)このホームページ管理人は、109基の古窯跡の一覧表をエクセルに入れ、項目ごとにグラフを作った。グラフを作った項目は、所在地・現況・時代・遺跡の概況等・備考である。

項目<所在地>

古窯跡の地区別の数

所在地の項目にフィルターをかけて地区ごとの数を絞り込んで表にし、縦棒グラフにした。

篠岡古窯跡群の所在地が桃花台ニュータウンにある割合

所在地の項目にフィルターをかけて、桃花台ニュータウン内にある古窯跡数を絞り込み、表にして円グラフにした。

項目<現況>

古窯跡の現在の様子

現況の項目にフィルターをかけて、それぞれの現況の数を絞り込み、表にして、横棒グラフにした。

項目<時代>

時代ごとの古窯跡の数

時代の項目にフィルターをかけて時代ごとの古窯跡数を絞り込み、縦棒グラフにした。

項目<遺跡の概況等>

窯跡で出土した土器の種類

<遺跡の概況等>に記入されていた窯跡ごとの土器の種類にフィルターをかけて、横棒グラフにした。須恵器は、古墳時代から平安時代にかけて作られていた青灰色で硬い土器である。(「Wikipedia須恵器」参照)灰釉陶器は、奈良時代から平安時代にかけて、植物の灰を釉薬にしてかけて作られた土器で、須恵器の技術から発展した技術を要する土器である。従って、須恵器よりも時代が新しい。(「コトバンク 灰釉陶器」参照)緑釉陶器は、銅を含む釉薬をかけて作られた土器で、奈良時代から平安時代にかけて作られていた。銅が発色して、緑色の陶器が出来上がる。(「コトバンク 緑釉陶器」参照)篠岡丘陵で作られていた緑釉陶器は、奈良や京都などの中央政府で使われていた。グラフで見ても、緑釉陶器を作る窯跡のなんと少ないことか。山茶碗は、11世紀末(院政時代)中世前期に作られていた土器で、灰釉陶器から無釉の民間雑器に転化した土器である。(「コトバンク 山茶碗」参照)このグラフを見ると、長い期間操業したり、特殊品を作る窯跡が少ないのは、現在でも同じだと、このホームページ管理人は思う。

項目<備考>

発掘調査された古窯跡の数

<備考>の項目にフィルターをかけて、発掘調査が実施された窯跡の数を抽出し、表にして縦棒グラフにした。

発掘調査が実施された古窯跡が、確認された窯跡全体の中で占める割合

<備考>の項目にフィルターをかけて、発掘調査が実施された窯跡の数を抽出し、表にして、円グラフにした。

 発掘調査が実施された古窯跡の中で、滅失という言葉が入っていないのは、篠岡7号窯・篠岡47号窯・篠岡111号窯の3基のみである。篠岡7号窯は、上末の果樹園にある平安時代の古窯跡で、昭和61年(1986年)小牧市教育委員会が発掘調査をしている。篠岡47号窯は、調査後に桃花台中央公園に移設保存された古窯跡である。篠岡111号窯は、光ヶ丘4丁目にある御嶽神社と共にあり、灰原を石列で囲って、説明板が建てられている。

 ところで、平成5年(1993年)に発掘調査が実施され、農業公園建設のため滅失予定となっている篠岡112号窯であるが、2017年(平成29年)現在、農業公園はまだ建設されていない。しかし、篠岡112号窯があったと考えられる場所は、荒れ放題の荒地となっていて、これは、滅失したも同然だ。

篠岡112号窯現在地と考えられる場所

篠岡112号窯があったと考えられる場所。2017年11月このホームページ管理人撮影。