二十二 骨董市と紙芝居

 昭和21年(1945年)1月15日の晴れた日の朝、45歳になって公職を追放された海軍主計大尉斉藤啓輔は、名古屋市内の大須観音境内で開かれていた骨董市に店を出していた。斉藤の家系は、幕末の志士を先祖に持つ華族で、家族は東京に住んでいる。しかし、公職を追放された斉藤が家族を養うためには、斉藤家の蔵の中に山のようにある、先祖代々伝わっている着物や食器などの骨とう品を売りさばいてお金に替える以外の方法を斉藤は思いつかなかった。

 斉藤は、最初のうちは、斉藤家の蔵の中にある骨とう品を売る店を東京駅前の闇市で開いていた。しかし、戦前、華族が住居を持つことを定められていた東京は、斉藤のような立場の人間が腐るほどいて、その中で、商売をしていくことは、なかなか難しかった。斉藤家よりも格上の華族が、五万と、東京駅の闇市に骨とう品を売る店を出しており、品物の質からいっても、量からいっても、斉藤家とは桁違いの骨とう品を売る華族がしのぎを削っているのが東京だった。

 だから、斉藤は、名古屋まで流れてきたのだった。斉藤は、海軍主計大尉の仕事についていた1年前に名古屋市にある愛知県庁に出張した際、愛知県庁の職員から「月1回、名古屋市の大須観音の境内で開かれる骨董市はなかなか面白いですよ。」という話を聞いたことがあった。戦争が終わって、圧倒的に物資が不足している今、大須観音の境内では、毎日闇市が開催されているだろうと、斉藤は踏んだのだった。斉藤は、売れそうな骨とう品を蔵から持ち出すと、それを車に積んで、東京の家から名古屋を目指した。

 斉藤は、戦前、海軍主計大尉という仕事をやっていたということが、斉藤が他の華族とは違った強みであった。一般の人々は、買い出しや商売をするために列車を使用していたため、列車は、常に、窓からあふれんばかりの人々で満員状態であった。そのような時代背景の中で、車を所有しているという特権は、斉藤にも他の華族にもありがちなことだ。しかし、戦後間もないこの時期に、車を動かして東京から名古屋の間を移動できるくらいのガソリンを車に積むことができるという特権は、斉藤が海軍主計大尉をやっていたため、できることであった。朝6時に東京の家を出発し、斉藤が名古屋に着いたのは、午後6時であった。斉藤は、大須観音の近くに1カ月宿をとって、大須観音の境内で骨とう品を売る商売を始めることにした。

 斉藤は、翌日の朝5時に起きると、濃いこげ茶色のズボンに茶色い毛糸のセーターを着て、暖かそうな分厚いジャンパーを羽織り、紺色のマフラーと紺色の毛糸の帽子を頭にかぶって、茶色い毛糸の手袋をして、白いズック靴を履いて、宿を出て、大須観音に向かった。斉藤は、大須観音に着くと、まだ暗いうちから、大須観音の境内に適当に大きい木を見つけて、木の幹にターフを縛り付け、ターフの下にブルーシートを敷き、家から持ってきた骨とう品を並べた。そして、斉藤は、これからこの場所でどのような商売ができるのか、観察することにした。夜が明けて、まわりが明るくなると、大須観音の境内の中は、闇市を開く人々と闇市を訪れる人々とで、ごったがえした。そして、昼を過ぎると、大須観音境内にいる人々の中で、境内に遊びに来る子供たちが意外に多いことに斉藤は気がついた。

 「この子供たちをひきつけることができたら、自分の骨とう品の店も流行るのではないか?」

 斉藤は、自分が持ってきた骨とう品をいろいろ探してみた。フランス人形やブリキのおもちゃなどは持っていたが、これだけで、子供たちをひきつけることはできないような気がする。そして、斉藤は、子供たちの間で、「黄金バット」などの紙芝居が流行していることに目を付けた。この頃子供たちの間で流行していた紙芝居は、紙芝居屋の店主が駄菓子を子供たちに売り、駄菓子を買ってくれた子供たちに紙芝居を見せるというもので、中でも、「黄金バット」の紙芝居は、子供たちの間で大流行であった。駄菓子なら、今持っている手持ちの金で、駄菓子問屋から購入することができる。斉藤は、大須観音近くの菓子問屋街に駄菓子の買い付けに出かけ、紙芝居道具を一式購入した。

 昼過ぎに、斉藤が鈴を鳴らし、「これから紙芝居を始めるよ。」と境内の中で叫ぶと、どこからともなく、子供たちがどんどん集まって来た。そして、食糧難のこの時代に、不思議なことに子供たちは全員、手に小銭を持っていた。

 「親は、自分たちの食べる食料を減らしてまでも、子供たちにおこずかいを渡しているのか。」

 斉藤は、小さい子供を持つ親たちに感心した。水あめやガムやチョコレートなどの駄菓子を購入した子供たちの一団が、紙芝居のスタンドの前に座ると、斉藤は、紙芝居を始めた。そして、紙芝居の物語が、いよいよ、クライマックスの場面にさしかかると、斉藤は、

 「はい、今日はここまで。続きを見たい人は、明日も境内に集まって、水あめを買ってくれ。」

 と言って、紙芝居を終わった。次の日も次の日も、こうやって、斉藤は、昼過ぎの1時間くらいを紙芝居の時間に当てた。紙芝居が終わると、子供たちはいなくなったが、子供たちにおこずかいを渡した親たちが、今度は、斉藤の出している骨董屋に顔を出してきて、食器や着物などの骨とう品を買っていった。お金を持っていない者は、自分たちで作ったお米や野菜を持ってきて、物々交換をしていった。

 ある日、紙芝居が終わって、骨とう品の店の営業に戻った斉藤のところに、一人の30代くらいの女性がやってきて、こう言った。

 「うちの純一がいつもお世話になっております。」

 その女性は、毎日、斉藤の紙芝居を最前列で見に来ている純一君の母親だった。

 「いえいえ、こちらこそ、いつも純一君にはお世話になっております。」

 斉藤がこう返事をすると、その女性は、斉藤が並べている骨とう品を見ながら、こう言った。

 「昼の時間に純一の面倒を見てもらっているおかげで、私、とても助かっているんです。私たちは、大須観音の境内の近くで、うどん屋をやっているものですから、お客の多い忙しい時間帯に子供たちの面倒を見ていただけると、とても助かるんです。」

 その女性がこのように言うと、斉藤は、こう答えた。

 「今は、なかなか大変な時期ですが、やがて学校も再開されるでしょう。そうしたら、もう少し楽になりますよ。」

 すると、女性は、骨董の店に並べてある物のうちから、アイスクリームを入れるような青い縁取りのあるガラスの小鉢を手にとって、こう言った。

 「ところで、ここにある品物は、本当に、品のいい品物ばかりですね。こういう物を見ることができるのは、名古屋ではなかなかないですね。戦争中に名古屋市内を何度も襲った空襲で、古い物はみんな焼けてしまいました。名古屋城や熱田神宮が空襲で焼失したときは、私もショックでした。

 でも、疎開していた名古屋城の障壁画や熱田神宮の宝物は無事だったんですよ。私が小さい頃通っていた小学校の校長先生が小栗鉄次郎と言う名前の先生ですが、小栗先生が、名古屋城の障壁画や熱田神宮の宝物を猿投村と言う所に疎開させていたおかげで、名古屋城や熱田神宮が焼失しても、名古屋城の障壁画や熱田神宮の宝物は今でも立派に残っていると。みんなの間ではそういう話でもちきりです。小さい頃小栗先生に教えてもらったという生徒は、結構、この地方には多いのですが、御主人は小栗先生に教わったことはありますか?

 あ、この小鉢5つください。」

 斉藤は、小鉢を1つずつ紙にくるんで、袋に入れ、袋をその女性に渡しながら、こう答えた。

 「私は、小栗先生から教えていただいたことはございませんが、小栗鉄次郎と言う人のことはよく知っています。

 ああ、お買い上げいただいて、どうもありがとうございました。」

 斉藤は、1カ月名古屋で商売をして、東京の自宅に帰り、また、1カ月名古屋で商売をするという生活を繰り返した。

 「それにしても、紙芝居を見に来る子供たちの姿には、目を見張るものがある。ああいうものは、それほど、子供たちにとって、いいものなのか。」

 それまで、海軍主計大尉という仕事をしていて、大人としか話したことのない斉藤は、世界の新しい部分を発見したような感覚に襲われていた。昭和21年(1946年)11月、連合国軍総司令部(GHQ)により新たに公布された日本国憲法は、国民主権・戦争の放棄・基本的人権の尊重・法の下の平等をうたっていた。

 「今のまま、蔵の中の物を売り続けると、じき、売る物が無くなってしまうだろう。もう、戦争をすることがないこの国で、私のような元軍人が生きていくためには、どのような仕事に就いたらいいだろう。」

 斉藤は、毎日、このことを考えていた。昭和22年(1947年)、法の下の平等をうたう新しい日本国憲法の施行に伴って、連合国軍総司令部(GHQ)は、華族制度を廃止した。

 そして、斉藤が他の骨とう品屋仲間から品物を仕入れたりして、骨とう品屋を細々と続けていた昭和25年(1950年)、自由主義陣営のアメリカと社会主義陣営のソ連の間で勃発していた冷戦はますます激しくなり、連合国軍総司令部(GHQ)は、日本における占領政策を転換した。連合国軍総司令部(GHQ)は、今まで公職を追放していた軍国主義者などを社会に復帰させ、代わりに、共産主義者とみなした者は、公職から追放した。レッドパージである。レッドパージによって、「日本共産党員とその支持者」とみなされた1万人以上の人々が職を失った。

 昭和25年(1950年)6月に朝鮮半島全土で、朝鮮戦争が勃発する。アメリカは、日本を朝鮮戦争の最前線基地とした。そして、日本を反共の防壁とし、日本の防衛力を増強するため、新しい日本国憲法によって、戦争を放棄したにもかかわらず、連合国軍総司令部(GHQ)は、警察予備隊という組織を日本に作ったのであった。この警察予備隊は、4年後には、自衛隊となる。

 昭和26年(1951年)、日本は、アメリカとサンフランシスコ平和条約を結んだ。この条約締結により、日本は連合国軍総司令部(GHQ)による占領政策から解放され、国家としての主権を回復した。しかし、日本は、連合国軍総司令部(GHQ)によってもたらされた新しい日本国憲法によって戦争を放棄しているにもかかわらず、目と鼻の先の朝鮮半島では朝鮮戦争が勃発しているという環境に置かれていた。従って、当時の日本政府は、サンフランシスコ平和条約締結と同時に、アメリカとの間で、安全保障条約を結んだ。日本とアメリカの間で締結されたこの安全保障条約によって、アメリカ軍は日本に駐留し、日本の中で引き続き、軍事基地を使用したのであった。

 昭和26年(1951年)、これらの事実をニュースで聞いて、斉藤は、

 「元軍人であるという俺の肩書は、まだまだ、活かせるな。」

 と思った。斉藤は、戦争中、海軍主計大尉として、軍の予算の収支を報告する仕事をしていたのだった。そして、斉藤は、サンフランシスコ平和条約を締結しながら、日米安全保障条約も締結しているという矛盾だらけの日本の現状をしっかり理解している数少ない日本人のうちの一人であるという自覚はあった。

 「俺は、国会議員になる。」

 斉藤は、日本の国会議員の仕事こそが、自分の過去の仕事を活かす事が出来る仕事であることを自覚したのであった。52歳になった斉藤は、戦前自分が着ていた、勲章の付いた白い軍服の代わりに、紺色のスーツに白いワイシャツを着て、青いネクタイを締め、黒い革靴を履き、立候補者のタスキをかけて、東京渋谷の駅前でミカン箱の上に立った。昭和27年(1952年)9月、公職選挙法に基づく最初の衆議院議員総選挙が実施された。

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