国の指定史跡

遺跡の山周辺地図

小牧市遺跡分布地図(小牧市教育委員会 1991年3月発行)の野口・大山地区の上にこのホームページ管理人がペイントで書き込んだもの。

国指定史跡大山廃寺跡地図

「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 昭和54年(1979年3月発行)の中の「図版U大山廃寺付近航空測量図」の上にこのホームページ管理人がペイントで書き込んだもの。

1.国の指定史跡

2.大山廃寺跡が国の指定史跡に指定されてから今日までの歴史

3.変わっていないようで変わっている。

1.国の指定史跡

 国の指定史跡とは、貝塚・古墳・城跡・旧宅などの遺跡の中で、日本の国にとって歴史上または学術上価値が高いため、保護が必要なものについて、文化審議会の審議を経て、文部科学大臣によって指定された遺跡のことをいう。2018年1月現在、国の指定史跡は、全国で1795箇所あり、愛知県内には63箇所ある。小牧市内にある国の指定史跡は、小牧山と大山廃寺跡の2箇所である。なお、国の指定史跡においては、その現状変更やその保存に影響を及ぼす行為をしようとするときは、文化庁長官の許可が必要となる。また、史跡の所有者等によって、管理が著しく困難と認められる場合には、文化庁長官は、地方公共団体等をして、史跡の管理団体に指定することができる。小牧市にある国の指定史跡の中で、小牧山は、昭和2年(1927年)に指定を受け、管理団体は、小牧市である。また、大山廃寺跡は、昭和4年(1929年)に指定を受け、管理団体は、小牧市である。

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2.大山廃寺跡が国の指定史跡に指定されてから今日までの歴史

愛知県史跡名勝天然記念物調査報告第一巻(大正12年〜昭和17年 愛知県発行)、「第六 史跡(其四)五、東春日井郡篠岡村 大山寺跡」(愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事 小栗 鉄次郎著 昭和三年三月 愛知県)の最終ページ

「愛知県郷土資料叢書 第十五集」(昭和48年4月発行)より、愛知県史跡名勝天然記念物調査報告第一巻(大正12年〜昭和17年 愛知県発行)の中の、「第六 史跡(其四)五、東春日井郡篠岡村 大山寺跡」(愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事 小栗 鉄次郎著 昭和三年三月 愛知県)の最終ページをスキャナーで写したものである。なお、この本は、小牧市東部市民センター図書室の郷土資料のコーナーにある。

 現在の大山廃寺塔跡のあたりは、かなり以前から、古瓦が出土することが知られていた。昭和3年2月、山腹平坦地において、地表下1〜2mの深さから、塔の礎石と思われる17個の礎石群が発見され、同時に、奈良朝様式の軒丸瓦、鉄釘、灰等が発見された。このとき、調査を行ったのが、上写真の報告書を書いた小栗鉄次郎である。大山廃寺の塔跡が国の指定史跡に指定されたのは、小栗鉄次郎の尽力によるところが大きいと、「大山廃寺塔跡に就いて」(「尾張の遺跡と遺物29号」広瀬 定二著 1941年)の中では述べられている。昭和3年(1928年)の時点で、山麓には寺坊跡と思われる造成面が確認されていて、かなり大規模な山岳寺院があったものと注目されていたが、寺院全体の解明には至らず、昭和4年(1929年)12月17日、塔跡に限ってのみ文部省の史跡指定を受けることとなった。しかし、「大山廃寺塔跡に就いて」(「尾張の遺跡と遺物29号」広瀬 定二著 1941年)によると、昭和16年(1941年)の時点で、大山廃寺跡の付近一帯は、風致保安林(名所・旧跡・趣のある景色などを保存する目的で、都道府県が指定したもの)だと書かれている。

大山廃寺跡塔跡にある石標柱

大山廃寺跡塔跡の風景。2017年12月このホームページ管理人撮影。

大山廃寺跡塔跡にある塔の心礎

大山廃寺跡塔跡にある塔の心礎。2017年12月このホームページ管理人撮影。

 その後、日本は不景気が深まり、政治の世界に軍部が台頭していく。昭和6年(1931年)に満州事変が起こり、昭和7年(1932年)に5・15事件が起こって犬養首相が海軍若手将校らに暗殺される。昭和8年(1933年)、日本は、国際連盟を脱退して、軍国主義やファシズムが進む。昭和11年(1936年)、2・26事件が起こり、陸軍の青年将校らが大臣ら4名を暗殺して、軍部による政治介入が一層進む。昭和12年(1937年)日中戦争が始まり、1939年にドイツ軍とソ連軍がポーランドに侵入して第2次世界大戦が始まる。昭和16年(1941年)日本は、太平洋戦争に突入して、東京・大阪・名古屋などの主要都市が空襲を受け、広島・長崎に原爆が投下される。そして、昭和20年(1945年)、日本は、ポツダム宣言を受諾して、降伏文書に署名し、敗戦。連合国軍による日本占領が始まり、民主化政策に基づいて、昭和21年(1946年)天皇の人間宣言、日本国憲法の公布を経て、昭和26年(1951年)サンフランシスコ平和条約を結び、日本は、占領時代から独立国家としての道を歩み始める。そして、このような激動の時代の波にあっても、大山廃寺跡は、塔跡周辺のわずかな整備がなされた程度で、毎年4月の児神社のお祭りが行われる以外は、人里離れた山並みの中にあった。

大山廃寺跡女坂

大山廃寺跡の女坂を坂の途中から眺める。2018年1月このホームページ管理人撮影。

 しかし、昭和36年(1961年)頃から進んだ経済の高度成長により、新幹線や高速道路が建設され、公害や環境破壊が進んで行く。昭和47年(1972年)、児神社周辺に、社務所、道路、駐車場建設といった地元住民による整備工事や入鹿池への観光用を兼ねた林道建設が実施されることにより、大山廃寺跡は、部分的に遺跡が破壊される事態となった。このような事態の中、大山廃寺跡の調査と保存を訴える意見が、地元民有志・研究者の間から起こる。昭和48年(1973年)、文化庁記念物課調査官の現地視察があって、まず、塔跡以外にどんな遺構が存在するかの調査を行い、その結果をもとに、史跡としての指定地域の拡大をはかり、奈良時代の山岳寺院の全貌を明らかにし、その環境整備を計るようにすべきとの指摘があった。小牧市は、この指摘をもとに愛知県教育委員会と協議・検討の結果、年次計画的に調査を進めることとし、昭和49年度から、当初は3か年計画で小牧市教育委員会の主催のもとに国庫補助事業として、調査を実施することになった。そして、その後、当初3か年計画であった発掘調査事業は、文化庁の視察をえて、報告書作成も含めて、2か年延長し、昭和49年度(1974)から昭和53年度(1978)までの間、第1次発掘調査から第5次発掘調査まで行われた。昭和54年(1979年)に発行された大山廃寺発掘調査報告書は、「本寺院跡は、白鳳期(7世紀後半)にさかのぼって、中世末(16世紀頃)まで連続する山岳寺院跡であり、その歴史的意義は大きく、塔跡部分のみの史跡指定地を更に拡大し、保存策を講じなければならない。」としている。

女坂を切り裂く舗装道路

女坂の途中を舗装道路が切り裂く。2018年1月このホームページ管理人撮影。

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3.変わっていないようで変わっている。

 昭和54年の発掘調査報告書以後、小牧市が大山廃寺について発掘調査報告書を書いた形跡はない。このホームページ管理人が初めて大山廃寺跡がある山の中に入ったとき、遺跡の痕跡は大いにあるが、塔跡・児神社境内とそれに続く鐘楼跡・大山不動・江岩寺に続く坂(女坂と呼ぶ)以外は、かなり荒れた森で、人が手を入れた痕跡はなかった。また、荒れた森の中には、空洞の塚のようなものもあった。小牧市が発掘調査をした場所以外にも遺跡と思われる所はあり、その向こうに愛知県がダムを建設し、その向こうに更に遺跡と思われる場所があるといったように、史跡の境界は、更に広いのではないかと思われる。そして、このホームページの管理人が、何度もこの山の中に入っているうちに、自殺と思われる人間の遺体に遭遇したのは、今から10年ほど前の2007年(平成19年)12月のことだ。このとき、江岩寺と消防・警察の方にとてもお世話になった。この場を借りて、お礼を申し上げたい。2007年(平成19年)ころは、大山廃寺や古墳が点在するこの山は、森の手入れはされていないが、自然はそのまま残されていて、警察の方から聞いた情報によると、この山には、ミヤマクワガタが生息しているということだった。

本堂が峰の中にあるダムの一つ

本堂が峰の中にあるダムの一つで、10年ほど前にはここに建っていたが、大山不動の横にあるダムよりは新しくできたダム。2つの沢が集まる地点にこのダムがある。2つの沢が集まって児川になるので、児川の一番上流にあるダムということができる。このダムの周辺にも遺跡と思われる平地がいくつか存在し、「これ、本堂なのでは?」と考えてしまうような広い平地もある。このホームページ管理人にとっては、本堂が峰の中を歩き回る上でランドマークのような存在である。2017年12月このホームページ管理人撮影。

 それから、このホームページ管理人の子供たちが家から離れていき、このホームページ管理人の生活環境も変わっていった。そして、10年ぶりにこのホームページ管理人は、山に入り、大山廃寺跡に立った。10年ぶりに大山廃寺跡のある山の中に入ったこのホームページ管理人の感想は、「変わっていないようで変わっている。」ということだ。女坂の近辺やアブラシボリや塔跡の上の山は、間伐がされているように見えるが、10年ぶりに大山廃寺跡に入ってみると、更に新しい発見があり、史跡境界は更に広いと考えられる。一方で、春の花や夏の緑や秋の紅葉や冬の雪景色は私たちの目を飽きさせない。10年ぶりに大山廃寺跡のある山の中を歩き回り、このホームページ管理人は考える。「史跡境界とは、何だ?一山まるごと史跡ではないか?大山は本当に山なのか?」