野口・大山古墳群考察

大山廃寺と大山古墳群の地図

「小牧市遺跡分布地図」(小牧市教育委員会 1991年3月発行)の上にこのホームページ管理人がペイントで書き込んだものである。

白山神社鳥居からの眺め

白山神社鳥居は、名古屋市千種区の方面を向いている。そして、このホームページ管理人が地図で調べたところ、白山神社の鳥居が向く先は、名古屋市千種区の向こうに愛知県常滑市があり、伊勢湾を通り越した向こうには、伊勢神宮がある。2018年8月3日このホームページ管理人撮影。

野口・大山古墳群と壬申の乱

1.日本書紀が記述する壬申の乱

2.大友皇子は生きていた

3.大海人皇子の本陣

4.壬申の乱後

1.日本書紀が記述する壬申の乱

 日本書紀によると、672年に古代日本最大の内乱である壬申の乱が勃発した。壬申の乱の経過は以下の通りだ。

 660年代後半頃、天智天皇(大化の改新を行った中大兄皇子)は、自分の弟の大海人皇子を後継者とする考えを覆し、自分の息子である大友皇子を後継者とする意思を見せ始めた。その後、病に臥せった天智天皇を見て、大海人皇子は、後継者を大友皇子に譲って、出家を決意し、奈良県吉野に下って、出家した。672年1月、天智天皇は、近江宮(現在の滋賀県)に近い京都山科で崩御する。そして、大友皇子は近江朝廷を継承した。

 672年7月、大海人皇子は、奈良県吉野を出立し、美濃・伊勢・伊賀・熊野などに住む豪族の信を得ることに成功した。そして、不破の関(現在の岐阜県関ケ原町)を封鎖し、東海道・東山道を手中に収めた。美濃に入り、東国からの兵力を集めた大海人皇子は、軍勢を二手に分けて、大和(現在の畿内)と近江(現在の滋賀県)の二方面に軍勢を送り出した。一方、24歳の大友皇子率いる近江朝廷軍は、うまく兵力を動員することができなかった。そして、近江朝廷軍が瀬田橋の戦い(現在の滋賀県大津市)で大敗すると、大友皇子は大津の長等山で自害して果てた。

 673年、大海人皇子は即位して天武天皇となり、都を近江(現在の滋賀県)から飛鳥(現在の奈良県)に遷した。そして、論功行賞と秩序回復を行い、天武天皇は、天智天皇よりも更に中央集権制を進めていったのである。(参考「Wikipedia壬申の乱」

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2.大友皇子は生きていた

 壬申の乱で敗れた大友皇子は、大津の長等山で自害して果てたというのが、現在の日本の歴史の通説だ。明治政府は、大友皇子に「弘文天皇」という名前まで付けた。宮内庁は、弘文天皇陵を長等山前陵(ながらのやまさきのみささぎ)に治定している。言い伝えによると、大海人皇子軍の将軍が、自害した大友皇子の首を持って、野上行宮(のがみのかりみや 現在の岐阜県関ケ原町)にいた大海人皇子のもとに行き、首実検をした。その後、その首を埋葬した「自害峰」が岐阜県関ヶ原町にある。

 しかし、愛知県岡崎市には、大友皇子に関係する様々な遺跡が残されている。

以後、更新していきますので、お楽しみに。(続く)

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3.大海人皇子の本陣

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4.壬申の乱後

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途中の景色

神尾前古墳横を通る市民四季の道を白山神社まで登る途中で、鉄塔の向こうに広がる風景。このホームページ管理人が地図で調べたところ、この風景は、尾張平野の向こうに奈良県東吉野町方面を望んでいる。2018年7月21日このホームページ管理人撮影。