大山廃寺跡の言い伝え

 現在まで、大山廃寺に関する研究論文が元としている文献は、2つしかない。それが、「大山寺縁起」と「江岩寺縁起」である。

「大山寺縁起」

大山寺縁起前半

大山寺縁起後半

「東春日井郡誌」(大正12年(1923年)1月編纂 昭和62年(1987年)5月 ブックショップ「マイタウン」発行)第11章神社 第3節村社 児社 より。728ページから731ページをスキャナーで撮る。赤い枠で囲った部分が「大山寺縁起」(寛文八年(1668年)的叟書)「大山寺縁起」をこのホームページ管理人が解釈した言葉で書くと次のようになる。

 尾張地方東部にある春日井郡篠木荘大山の児神社は、昔、延暦年間(782〜806年)に伝教大師(最澄)がこの地を訪れて、山を切り開き、一軒の質素な小屋を建てて、大山寺と名付けたことに始まる。大山寺は、その後しばらく中絶したが、永久年中(1113〜1118年)、比叡山法勝寺住職の玄海上人が大山寺を再興し、天台宗第一の大きな寺とした。玄海上人は、大山寺の名前を大山峰正福寺と改め、寺の活動を盛んに行ったため、近隣の寺の僧侶は全て大山峰正福寺の傘下となり、三千坊と言われるほどになった。

 あるとき、美作国(現在の岡山県)の住人で、平判官近忠という武道の達人が、仏の道を志して、諸国行脚をし、大山にたどりついて、大山峰正福寺の玄海上人に会い、弟子になることを願い出た。玄海上人は、快く引き受け、平判官近忠の髪を剃り、法衣を与えた。平判官近忠は、よろこんで、仏の修業に励み、勉強した。平判官近忠は、天台の法もすぐに覚え、修業もすぐ極めたので、玄海上人は、平判官近忠に玄法上人という名前を与えた。

 玄海上人が亡くなると、大山峰正福寺は、玄法上人に引き継がれた。玄法上人は、博識秀才であったので、有力者は、こぞって、その子息を大山峰正福寺に修業に出した。大山峰正福寺に修業に出された子供たちの中でも、特に優秀であったのは、三河(愛知県東部)の牛田と近江(現在の滋賀県)の佐々木の二人の児童であった。この二人は、一を聞いて百を察するような子供たちで、暗記力も理解力も優れ、いつでも本を読み、どのような状況であっても勉強を怠らず、常に自分を磨いている優秀な子供たちであった。

 あるとき、近衛天皇の時代(永治元年から久寿2年 1142年〜1155年)に行われた勅願の儀(天皇が何かをお願いする儀式。何をお願いした儀式であったのかは不明)について、大山峰正福寺は比叡山と法論を生じたため、比叡山の僧兵たちが一揆をおこして、大山峰正福寺に押し寄せ、数坊の寺に火を放った。大山峰正福寺の僧侶たちは、比叡山の僧兵たちと戦ったが、比叡山の僧兵たちから寺を防ぐことはできなかった。玄法上人は、本堂に座って、更に指揮をすることもなく、火が収まることを願いながら、煙に包まれて、命を終わらせた。三河(愛知県東部)の牛田と近江(現在の滋賀県)の佐々木の二人の児童は、何を思ったか、炎の中に走っていき、時の塵となった。(行方不明になった。)仁平2年(1152年)3月15日、大山峰正福寺の大伽藍は一つ残らず焼失した。

 そのことが起こってからしばらくして、かねてから病弱であった近衛天皇の病気は悪化した。医者たちは、近衛天皇を治そうとしたけれども、どのように治療しても、効果が現れなかった。その頃、平安京の御所清涼殿に異形の化け物が現れ、人々を恐怖に陥れていた。御所の公卿たちが安部氏に相談した所、それは、比叡山僧兵に襲われて、一山まるごと焼き払われた大山峰正福寺の僧侶たちの崇りであるので、弓矢で射て退治しなければならないということであった。御所の公卿たちは、話し合い、兵庫頭頼政に頼んで、化け物を射させることにした。兵庫頭頼政は、家臣の弓の名人である井の半弥太を連れてきて、紫宸殿に待機し、化け物が現れるのを今か今かと待っていた。夜も更けた頃、陽明門の方角より、鵺のような声を発し、光りながら渡ってくるものがあったので、井の半弥太は、そのものに向かって弓を射た所、矢は誤らず、化け物の真ん中を射とおした。化け物は、庭の上にどっと落ちたので、井の半弥太は、かがり火を振り上げてみてみると、その化け物は、胴は虎、尾は蛇の化け物だった。井の半弥太は、おのれ曲者よと差し止めた。

 しかし、化け物を退治しても、近衛天皇の病気は治る気配がなかった。御所の公卿たちは、皆で話し合い、安部清業を連れてきて、考えさせようということになった。御所に来た安部清業は、しばらく考えてから、このことは、比叡山僧兵に一山まるごと焼き払われた大山峰正福寺で焼け死んだ二人の児童の一念であるので、焼き払われた大山峰正福寺のあった所に神社を建てて、二人の児童の魂を祀れば、近衛天皇の病気は治るでしょう、と答えた。それなら、ということで、公卿たちは、久寿2年(1155年)11月、鷹司宰相友行を勅使として、大山に派遣した。

 大山に派遣された鷹司宰相友行は、いくつか神社を建立し、焼け死んだ二人の子供を「多聞童子」「善玉童子」として、神社の守り神とした。そして、禰宜(宮司)が巫女に神託を任せたところ、これからは、この神社は、男女全ての児童が長寿を迎えることができるように児童を守る神となるべきだとする神託であった。そして、ついに、近衛天皇の病気は治り、そのことにより、児神社は多くの社領を得、年に6度の祭りを行い、二度繁盛の地となった。

 そののち、勅使の鷹司宰相友行は、神社が成功したお礼として、大山の中の様々な御神跡に立った。まず、ふもとにある一王子という神跡に立った後、大山不動に参詣し、東の谷をまわって、珍しい景色だと言って、3つの滝を、金剛の滝、胎蔵の滝、王子の滝と名付け、一首詠んだ。

 君がため滝の白糸結び上げ 千代万歳と祝う神風

 そのように遊ばれたのち、勅使の鷹司宰相友行は、別の場所でも案内人にいろいろ尋ねられた。案内人は、勅使の鷹司宰相友行に大伽藍の跡を一つ一つ申し上げた。本堂は、12間四方(21.72m四方)あり、30間(54.3m)の廻廊があり、左右に18の御堂があり、前に五重塔があった。その中で、弥勒菩薩と太鼓堂・鐘堂等は焼けずに残った。

 そして、勅使が都に帰った後も、神徳を称し、霊験新かである。全ての罪を持った者を守りたもう。

寛文八年(1668年)三月 的叟書

「江岩寺縁起」

「大山廃寺遺跡概説」(入谷哲夫著 昭和48年(1973年)11月発行)に載る「江岩寺縁起」の一部分

赤い線で囲ってある部分が、「大山廃寺遺跡概説」(入谷哲夫著 昭和48年(1973年)11月発行)に載っている「江岩寺縁起」の一部分。

 「江岩寺縁起」は、作者は不明だが、明治期に作られたものと推定されている。大山寺が伝教大師(最澄)によって延歴年間(782〜806年)に創建され、仁平2年(1152年)に比叡山の僧兵たちの焼き討ちにあって、一山丸ごと焼き払われたことまでは、大山寺縁起と記述内容は同じである。

 その後、様々な宗派の高僧が大山に来て修行をしたが、大山に大きな寺院を建立するには至らなかった。その頃、大山にある寺屋敷の一つに洞雲坊と言う名の寺があった。洞雲坊の秋岩恵江と言う名の僧侶は、仁平2年に大山峰正福寺が焼き払われた後に焼け残った仏像を毎日供養していた。正親町天皇の時代(1557〜1586年)、洞雲坊の秋岩恵江は、古の大山峰正福寺の再興を願って、当時の高僧であった、京都の花園にある妙心寺を開山した恵玄禅師法孫十洲宗哲大禅師を呼んで中興と仰いだ。そして、洞雲坊の名称から洞雲山という山号に改め、秋岩恵江の名前から二文字を取って、江岩寺と改称した。江岩寺は、京都の花園にある妙心寺を開山した恵玄禅師法孫十洲宗哲大禅師を第一世とし、秋岩恵江僧侶を第二世として、現在まで続いている。

 ところで、江岩寺は、壬申の乱(672年)の後、天武天皇により創建された大山寺が寺の始まりであると伝えている。大山寺が仁平2年(1152年)に比叡山の僧兵たちの焼き討ちにあって、一山丸ごと焼き払われた後、洞雲坊と名乗っていた江岩寺に転機が訪れたのは、元亀2年(1571年)のことである。元亀2年(1571年)に起こった織田信長による比叡山焼き討ちを知った当時の洞雲坊秋岩恵江住職は、洞雲坊が天台宗であったことから、信長と関わり合いになることを恐れ、京都にある妙心寺を頼ったと伝えられる。

参考文献

「東春日井郡誌」(大正12年(1923年)1月編纂 昭和62年(1987年)5月 ブックショップ「マイタウン」発行)

「大山廃寺遺跡概説」(入谷哲夫著 昭和48年(1973年)11月発行)

「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 昭和54年(1979年)3月発行)

「小牧の寺院」(小牧市教育委員会 平成28年(2016年)3月発行)