第3次大山廃寺発掘調査

第3次大山廃寺発掘調査地点

「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 昭和54年(1979年)3月発行)の中の「図版U大山廃寺付近航空測量図」の上にこのホームページ管理人がペイントで書き込んだもの。

1.第3次大山廃寺発掘調査について

2.第3次大山廃寺発掘調査で検出された遺構

3.第3次大山廃寺発掘調査で検出された遺物

4.第3次大山廃寺発掘調査結果

1.第3次大山廃寺発掘調査について

児神社境内

児神社境内。第3次発掘調査地点。2018年3月このホームページ管理人撮影。

児神社境内南東部

第2次に引き続き第3次発掘調査が行われた児神社境内南東部。2018年2月このホームページ管理人撮影。

 第3次発掘調査が行われた昭和51年度(1976年度)は、奈良国立文化財研究所埋蔵文化財センターの指導により、遺跡の統一的な標示と地区割の方法を定めた。真北方位で南北125m、東西495m単位の方眼を設定し、南から北へアルファベットの記号を付けて標示することとした。江岩寺付近をA区、南斜面の小平坦地群をB区、児神社と満月坊地区周辺をC区、塔跡付近をD区とし、ABCDの各大地区内に5m単位の方眼を設定し、その1単位を小地区とした。そして、第3次発掘調査は、昭和51年(1976年)7月21日から昭和51年(1976年)8月25日の期間に行われた。発掘調査は、まず、第2次発掘調査が行われたC区(児神社と満月坊地区周辺)南東部B3造成面の礎石建物SB02の全面発掘から行われ、順次、児神社拝殿付近へ拡大させることになった。第3次発掘調査が行われた児神社境内では、中世の遺構に重なって、奈良・平安期の遺構があることが想定されたため、文化庁の視察を経て、当初3年計画であった大山廃寺発掘調査事業は、2年延長されることとなった。

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2.第3次大山廃寺発掘調査で検出された遺構

第3次発掘調査で明らかになった遺構の図

第3次発掘調査で明らかになった遺構。「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 昭和54年(1979年)3月発行)の中の「図版X C区地形測量図及び遺構概略図」の上にこのホームページ管理人がペイントで書き込んだもの。

<児神社境内南東部>

(中世の石積列SX01)

中世の礎石建物SB02の北東約5mの位置で検出した。東西8m、南北2mで、直角に折れ曲がるL字状の形をしているが、西端、南端は破壊されている。遺跡として存在している石積みは、1〜2段、高さ30pで、北と東に面を揃え、曲がり角には、SB02の礎石に匹敵する大きな石が用いられている。方位は、中世の礎石建物SB02と一致しており、中世の礎石建物SB02を造営するときの基礎をなす盛土整地土の土を留める役割の壁として構築したものとみられる。

(中世の石積列SX14)

中世の石積列SX01の西延長線上に検出され、東西にのびる石積列である。長さ2m分を検出した。人の頭位の大きさの石を北に面を揃えて積んでいて、高さ20〜30pが遺跡として残っていた。石積列SX01と一連のものと考えられるが、SX14は東には延びず、SX01との間に石積が切れ、整地土が北に張り出している部分が見られた。

(中世の石積列SX02)

児神社境内南東部の南端で検出した、東西に延びる石積列である。長さ約11.5mを検出した。人の頭くらいの大きさの自然石の割石を使用し、中世の石積列SX04(児神社拝殿付近に見つかった石積列)とほぼ平行する方位をとり、一部に階段状の張り出し部分が認められる。この階段状の張り出し部分より東側に接続する部分の石積列の方位は、中世の石積列SX04とは一致せず、3度ほど南にふれており、第4次発掘調査で発掘した古代の礎石建物SB04の方位と一致することが後にわかることになる。従って、中世の石積列SX02の中で、階段状の張り出し部分より東側に接続する部分の石積列だけは、古代の石積列が中世に踏襲された可能性が考えられる。なお、石積列SX02の大部分は、灰を含む赤褐色土層の上に構築されていたが、この石積列の階段状の張り出し部分のすぐ東に接続する部分の石列は、灰を含む赤褐色土層に覆われていた。

(中世の石積列SX03)

中世の石積列SX02から更に南側で検出した東西に延びる石積列である。石積列SX02より約1.4m低い位置にある。長さ約5mの石積列を検出したが、石がぬけおちて、まばらになっている。

(時期不明の何らかの遺構の礎石SX13)

中世の石積列SX02から南西部分に約1m下がった位置で、第1次発掘調査を行った塔の心礎と同じ大きさの礎石が検出された。平坦面を上にした、1m×50pの大きさの石である。何らかの遺構があったと思われるが、時期は不明である。参考資料「第六 史跡(其四)五、東春日井郡篠岡村 大山寺跡」(愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事 小栗 鉄次郎著 昭和3年3月 愛知県史跡名勝天然記念物調査報告第一巻(大正12年〜昭和17年 愛知県発行)より、「張州府誌に、祠の前に七層の石塔があったとあるが、七層の石塔は今所在が明らかでない。」

(CJ31トレンチセクション)

中世の礎石建物SB02の西斜面に幅約1.5mの狭いトレンチを設定したところ、最下層から種々多量な古代瓦(白鳳期から平安時代前期、7世紀末〜9世紀前半)が出土した。児神社境内にあった古代の建物の瓦は、大半が斜面にかきおとされたものと思われる。

CJ31トレンチセクションの写真と図

「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 昭和54年(1979年)3月発行)の中の17ページ「挿図3 CJ31トレンチセクション」と「写真図版]V C区 CJ31トレンチ」を使用して、 このホームページ管理人が作成したもの。

<児神社拝殿付近>

(中世の礎石建物SB03)

児神社境内南東部の調査の次に、児神社拝殿部分の表土を削除したところ、沈下を防ぐために礎石建物の礎石の下に敷いた詰石列と思われる遺構が検出された。この詰石列を覆う表土層の中から、室町期の美濃系山茶碗がかなりの量採集された。検出されたこの詰石列から推定すると、中世には、現在の児神社拝殿部分を大きくおおって、平坦地いっぱいに、一大建物が建立していたと考えられる。根石および礎石を掘った跡は、部分的にしか確認できなかったが、その建物の規模は、21m×21m(7間×7間)で、柱と柱の間は、全て等しく、3mであると推測される。この礎石建物は南面しているが、東側の柱の根石は、中世と考えられる整地土上で検出され、他の柱の根石は地山面(人が手を入れていない自然の土地)で確認された。

(中世の石積列SX04)

中世の礎石建物SB03の南側の柱の列から更に3m南の位置に、東西13.5mにわたる石積列が確認された。この石積列の東端は更に東に延び、西端は南に直角に曲がる。(上の図の緑線SX04のようになる。直角に曲がった部分の石積列は、第4次発掘調査で検出されることになる。)また、この石積列は、中世の礎石建物SB03と平行であり、中世の礎石建物SB03に伴うものと考えられる。検出された中世の石積列SX04は、人の頭の大きさの石を南に面を揃えてほぼ垂直に積み上げたもので、3〜4枚が遺跡として残っているが、この石積列の北側にある造成面盛土の土を留めるための壁であると考えられる。この石積列の中央(中世の礎石建物SB03の中心線上にあたる部分)の下部には、更に南に張り出した四角い石組列が検出された。この石組は、外側に面を揃え、南北1.7m、東西1.8mである。この石組列は、中世の石積列SX04に付属する階段の基礎をなす施設と考えられる。

(時期不明(中世?)の石積列SX08)

中世の礎石建物SB03の南西にあたる位置で検出した、東西にわたる石積列である。約2mの長さに、人の頭の大きさの石が並べられている。しかし、この石積列の方位は、若干、中世の礎石建物SB03と異なる。整地土の上に作られているが、時期は不明である。

(奈良・平安期の遺構)

中世の石積列SX04の前面に大きな土こう(穴)の一部が検出され、窯壁状の焼土塊や銅滓、鉄滓が多量に出土した。この土こう(穴)からは、同時に、奈良・平安期の遺物が出土した。この土こう(穴)が、奈良・平安期のどのような施設であったのかは、第4次発掘調査の後に明らかになるのだが、第3次発掘調査の時点では、中世の遺構に重なって、奈良・平安期の遺構も存在することが明らかとなった。第4次発掘調査では、この第3次発掘調査の結果を踏まえて、児神社境内に存在した奈良・平安期の遺構を調査することになる。

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3.第3次大山廃寺発掘調査で検出された遺物

第3次発掘調査で出土した遺物は、中世陶磁が主体であり、その下から、古代の遺物が出土した。第3次発掘調査で出土した遺物の特色は、3つある。

その1.第2次発掘調査地点満月坊地区との違い。

その2.青磁・白磁の出土量の少なさ。出土した中世陶磁は、古瀬戸・美濃産が主体であった。

その3.多様な古代瓦の出土。

その1.第2次発掘調査地点満月坊地区との違い。

 第3次発掘調査では、古瀬戸・常滑・山茶碗など多様な出土品があった。このうち、出土量の大半を占めていたのは、中世陶器の山茶碗・小皿である。特に、石積列SX04からは、13世紀後半から14世紀にかけての時期と思われる完形品を含む多量の出土があった。また、礎石建物SB03の礎石の下を覆う表土層の中からは、室町時代の美濃系山茶碗がかなりの量出土した。一方で、第3次発掘調査において、出土した遺物の中では、13世紀後半から16世紀までの古瀬戸の仏器(花瓶・香炉・四耳壷・瓶子など)が目立っていた。C区南東部にある礎石建物SB02周辺やその北の石列SX14付近からは、鉄製品の風鐸・風鐸の舌が出土している。

第3次発掘調査時に出土した風鐸・風鐸の舌の図

第3次発掘調査時に出土した風鐸・風鐸の舌の図。「大山廃寺発掘調査報告書」(1979年(昭和54年)3月 小牧市教育委員会発行)の中の「図版]]]Z 満月坊地区出土土師質器・青磁その他、鉄製品」から管理人が抜粋し、ペイントで書き込んだもの。

 第2次発掘調査のとき、満月坊地区から出土した遺物では、古瀬戸の鉢・椀などの生活用品が目立った。従って、満月坊地区は、中世には、僧坊などが存在したものと考えられる。一方、第3次発掘調査が行われた地区は、13世紀後半以後の中世には、伽藍が造営・整備されていたと考えられる。特に、大規模な礎石建物SB03は、天台・真言系の礼堂がつく巨大な本堂とみなすことができる。また、C区南東部にある礎石建物SB02は、この建物の整地土の中から、13世紀後半から14世紀頃の山茶碗が出土していることから、この建物の時期を14世紀頃とし、大規模な礎石建物SB03より新しい建物と考えられる。

第3次発掘調査出土中世陶器の図

第3次発掘調査出土中世陶器の一部。「大山廃寺発掘調査報告書」(1979年(昭和54年)3月 小牧市教育委員会発行)の中の「図版]][ C区出土山茶碗・小皿他」に管理人がペイントで書き込んだもの

その2.青磁・白磁の出土量の少なさ。出土した中世陶磁は、古瀬戸・美濃産が主体であった。

「出土した中世陶器のうちでは、山茶碗、小皿についで、古瀬戸製品が多く、仏器のほとんどが古瀬戸である。中国産の青磁は、細片10数点が出土したにすぎず、この時期の寺院跡としては、意外なほど少ない。」

 これは、「大山廃寺発掘調査報告書」(1979年(昭和54年)3月 小牧市教育委員会発行)の中の「第6章 小結 第3節 出土土器の変遷について」に書かれていた文章である。

 中世の日本において、庶民に日常的に多く使われていたのは、青磁・白磁などの中国産の碗や皿であった。中国産の陶磁器は、国産の瀬戸や美濃の陶磁器よりも普通に使われていた。陶磁器の流通量も、質も、安い価格も、特別に高価な陶磁器も、国産のものは、中国産にかなわなかった。このような状況の中で、国産陶磁器の中心地のひとつである瀬戸や美濃では、青磁・白磁などの中国陶磁器のコピーを盛んに行った。それは、日常的に使用する皿から仏器などの高級品まで多彩なコピーである。その後、室町時代後期から、瀬戸・美濃では、従来の中国陶磁器のコピーとは全く異なる、瀬戸黒・黄瀬戸といった陶磁器が作られはじめ、茶の湯の人気と共に国産の陶磁器生産の隆盛につながっていった。

 さて、日本全国では、様々な廃寺跡の発掘調査が行われてきたが、中世の廃寺跡から出土する陶磁器は、地方によって、様々な特色があるようだ。例えば、福岡県久山町の白山で確認された中世山岳寺院遺跡和歌山県の根来寺遺跡などは、大山廃寺とは全く逆で、出土した遺物は、中国産陶磁が多数を占めていたらしい。また、千葉県市原市にある鎌倉時代の寺社遺跡である片又木遺跡では、「カワラケ」という遺物が圧倒的に多く、瀬戸・美濃産の陶磁器は皆無であり、中国産陶磁器と常滑・渥美産陶器が一部認められるにすぎないようだ。このように、他の地方の中世寺院遺跡から出土した遺物を比較してみると、大山廃寺において、出土した中世陶磁は、古瀬戸・美濃産が主体であったという事実は、注目に値する。

 なぜ、中世の大山廃寺が、古瀬戸や美濃産の陶磁器をひいきに使ったのか。瀬戸・美濃陶磁器の生産地が大山廃寺から近かったという理由もあっただろう。もしかしたら、地元を盛り上げるために、大山廃寺という寺院が一役かっていたのかもしれない。大山廃寺が地元志向の寺であったとしたら、瀬戸や美濃の陶磁器生産者にとって、大山寺が廃寺となったことの痛手は大きかっただろう。だから、室町時代後期から、瀬戸・美濃では、従来の中国陶磁器のコピーとは全く異なる、瀬戸黒・黄瀬戸といった陶磁器が作られはじめたと考えてもおかしくはないのではないか。

 全国には、様々な中世山岳寺院跡が発掘されている。どの遺跡も、都市のように規模の大きな寺院だが、文献が少なく、謎が多いということが共通している。文献は少ないが、遺物はたくさん出土する。しかし、出土した遺物を見ると、その当時の寺院の志向が見えてくる。現代の家庭にある食器が、その家の主人や主婦の好みを反映していることと同じである。

<参考リンク>

大阪市立東洋陶磁美術館

その3.多様な古代瓦の出土。

 第3次発掘調査では、大規模な中世の礎石建物が発掘されたが、同時に、中世の遺跡の下から、古代の遺物が次々に出土するのであった。中でも、斜面に設定したCJ31トレンチは、幅約1.5mと狭いトレンチにもかかわらず、様々な種類の古代瓦が多量に出土した。従って、大山廃寺のこの地区では、古代寺院のときに使われていた瓦の大半は、斜面にかきおとされたものと思われる。なお、大山廃寺発掘調査において出土した瓦は、白鳳時代から平安時代前期(7世紀末から9世紀)のものが主体を占めている。つまり、7世紀末以前及び10世紀以後は、大山廃寺は瓦葺の建物ではなかったということになる。ここでは、発掘調査で出土した多様な古代瓦を見てみよう。

3次発掘調査出土軒丸瓦1の図

第3次発掘調査にて出土した様々な種類の軒丸瓦の図。「大山廃寺発掘調査報告書」(1979年(昭和54年)3月 小牧市教育委員会発行)の中の「図版]X 軒丸瓦Tーb・U・V・W類」に管理人がペイントで書き込んだもの。

3次発掘調査出土軒丸瓦2の図

第3次発掘調査にて出土した様々な種類の軒丸瓦の図。「大山廃寺発掘調査報告書」(1979年(昭和54年)3月 小牧市教育委員会発行)の中の「図版]Y 軒丸瓦X・Y・Z・[類」に管理人がペイントで書き込んだもの。

3次発掘調査出土軒平瓦1の図

第3次発掘調査にて出土した様々な種類の軒平瓦の図。「大山廃寺発掘調査報告書」(1979年(昭和54年)3月 小牧市教育委員会発行)の中の「図版]\ 軒平瓦Tーa・Tーb・U類」に管理人がペイントで書き込んだもの。

3次発掘調査出土軒平瓦2の図

第3次発掘調査にて出土した様々な種類の軒平瓦の図。「大山廃寺発掘調査報告書」(1979年(昭和54年)3月 小牧市教育委員会発行)の中の「図版]] 軒平瓦V・W・X・Y・Z類」に管理人がペイントで書き込んだもの。

3次発掘調査出土鬼瓦・記銘瓦の図

第3次発掘調査にて出土した様々な種類の鬼瓦・記銘瓦の図。「大山廃寺発掘調査報告書」(1979年(昭和54年)3月 小牧市教育委員会発行)の中の「図版]]W 鬼瓦・記銘瓦」に管理人がペイントで書き込んだもの。

3次発掘調査出土軒平瓦の写真

第3次発掘調査にて出土した様々な種類の軒平瓦の写真。「大山廃寺発掘調査報告書」(1979年(昭和54年)3月 小牧市教育委員会発行)の中の「写真図版]Z 軒平瓦」

3次発掘調査出土軒丸瓦・鬼瓦の写真

第3次発掘調査にて出土した様々な種類の軒丸瓦・鬼瓦の写真。「大山廃寺発掘調査報告書」(1979年(昭和54年)3月 小牧市教育委員会発行)の中の「写真図版]X 軒丸瓦・鬼瓦」

3次発掘調査出土軒平瓦・軒丸瓦・記銘瓦の写真

第3次発掘調査にて出土した様々な種類の軒平瓦・軒丸瓦・記銘瓦の写真。「大山廃寺発掘調査報告書」(1979年(昭和54年)3月 小牧市教育委員会発行)の中の「写真図版][ 軒平瓦・軒丸瓦・記銘瓦」

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4.第3次大山廃寺発掘調査結果

 第3次発掘調査の結果、児神社境内にあるこの地区は、中世には、巨大な本堂ともみなすことができる礎石建物SB03や、独立した小堂とはいえ、中禅寺薬師堂などに匹敵する規模を持つ礎石建物SB02が存在していたことがわかった。日本の中世というのは、鎌倉時代が始まる13世紀頃から織田信長による天下統一が始まる16世紀頃までを指す。そして、児神社境内において、織田信長による天下統一が始まる16世紀以降の遺構は検出されておらず、大山廃寺は、16世紀以降は衰退していったと考えられる。

 一方、CJ31トレンチセクションに見られるように、これらの建物の礎石の下のある一定の時期の地層には、多様な古代瓦が埋もれていた。

 さて、CJ31トレンチセクションにおいて古代瓦が埋まっていた地層の時代、即ち、仏教伝来以来の古代(飛鳥・白鳳・奈良・平安時代、6世紀から12世紀まで)において、日本の仏教の在り方はどうだったのだろう。日本に仏教が伝来して以来、多くの僧が山中で修業をしていたことが、「続日本紀」などの古い文献や古代国家の法律である「律令」の中で語られている。最近相次いでいる中世山岳寺院の発掘調査によってわかったことだが、奈良時代の山岳寺院は、国分寺の成立と同時進行で建てられていったらしい。つまり、奈良時代、聖武天皇が仏教を普及させるために、各地の都市に国経営の寺を立てるように詔を発したのと並行する形で、山間部や丘陵地にも修業の場としての山岳寺院が次々と造られていった。そして、平地の寺ではもっぱら学問を行い、山の寺では修業を行うという仏教の在り方が浸透していた。都市に古くからある寺院には比較的文献が残っているが、発掘された多くの山岳寺院に寺院のことを語る文献がほとんど存在しないのは、このためではないかと管理人は考えている。学問僧は文献によって寺の存在を後世に伝え、修行僧は言い伝えによって寺の存在を後世に伝えたのではないだろうか。文献は、焼けたり紛失したらなくなってしまうが、言い伝えは、人がいるかぎり、なくなったりはしない。(しかし、正確さに欠けるところが言い伝えの難点でもある。)

 平安時代に入ると、空海や最澄によって、中国の最先端の仏教が日本に伝来して、真言宗や天台宗が広まった。しかし、空海や最澄も、中国に渡る前には、日本の山にこもって修業をし、密教的な呪術を学んでいた。最澄は、中国に渡る前に長期間、比叡山に草庵を結び、788年に一乗止観院を創建したが、大山廃寺の言い伝えにもあるように、最澄は、やはり、この大山廃寺にも修業に来たことがあるのではないかと、管理人は、何の根拠もなく、そう思っている。

 ここで、話は変わって、屋根のことを考えてみる。上古の時代(縄文・弥生・古墳時代)から、日本の建物の屋根は、茅葺・桧皮葺・柿葺などの植物を原料にしたものであった。しかし、6世紀に入り、仏教が日本に伝来して、瓦葺の技術が中国から輸入されると、瓦葺が当時のステイタスシンボルとなり、茅葺・桧皮葺・柿葺などの植物を原料とした屋根は、二流・三流の扱いを受けた。一方、日本の在来工法である茅葺・桧皮葺・柿葺などの植物を原料とした屋根は、天皇や貴族の住まいには墨守されていた。例えば、日本最初の本格的寺院である飛鳥寺は、百済(現在の朝鮮半島)からの渡来人によって建立された、瓦葺礎石建物という大陸直輸入の最新建造物であったのに対して、宮殿建築である前期難波宮は、桧皮葺や茅葺などの植物原料の屋根と掘立柱式建物という日本の在来工法によって建てられていた。そして、8世紀に入ると、寺院などにも茅葺・桧皮葺・柿葺などの植物を原料とした屋根が徐々に増え始める。9世紀に入ると、国風化の動きもあって、茅葺・桧皮葺・柿葺などの植物を原料とした屋根は寺院などにも盛んに使われるようになった。中世に入ると、茅葺・桧皮葺・柿葺などの植物を原料とした屋根は、技術も進歩し、洗練されたものになっていった。近世以降は、瓦葺が普及してきた。

 日本の山岳寺院においては、山間部において植物性原料が手に入りやすく、瓦のように冬期に爆ぜることもないので、一般的には、茅葺・桧皮葺・柿葺などの植物を原料とした屋根が多く使われていたようである。しかし、昔から瓦を焼く良質の土があり、かつ有能な瓦師や葺師がいた地方には瓦葺が栄え、桧皮の入手しやすい山や柿板の材料となる杉やさわらの多い地方では、茅葺・桧皮葺・柿葺などの植物を原料とした屋根が栄えるということも言えるようである。大山廃寺の第3次発掘調査地点から発掘された瓦は、7世紀末から9世紀(白鳳時代から平安時代初期)のものであった。この時代より新しい地層からは、瓦は発掘されていない。一方、大山廃寺から約4kmの距離にある篠岡古窯跡群で陶器が生産されていたのは、7世紀から12世紀の間である。大山廃寺から発掘された瓦は、篠岡古窯跡群で生産されていた可能性は高い。大山廃寺における古代から中世末まで(7世紀末から16世紀頃まで)の長い歴史において、瓦葺の建物が建っていた可能性というのは、7世紀末から9世紀という短い間に限られるということが、ここまでの発掘調査でわかったことである。茅葺・桧皮葺・柿葺などの植物を原料とした屋根は、使わなくなったら、土にかえり、跡かたもなく消える。

<参考文献>

「ものと人間の文化史 112 屋根 桧皮葺と柿葺」原田 多加司著 (財団法人法政大学出版局 2003年5月発行)

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