第2次大山廃寺発掘調査

第2次大山廃寺発掘調査地点

「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 昭和54年(1979年)3月発行)の中の「図版U大山廃寺付近航空測量図」の上にこのホームページ管理人がペイントで書き込んだもの。

1.第2次大山廃寺発掘調査について

2.第2次大山廃寺発掘調査で検出された遺構

3.第2次大山廃寺発掘調査で検出された遺物

4.第2次大山廃寺発掘調査結果

1.第2次大山廃寺発掘調査について

「大門跡と称する所があるが、今礎石は見当たらぬ、ここから約一間であった道幅が二間に広まって、本堂跡に達している。」

愛知県史跡名勝天然記念物調査報告第一巻(大正12年〜昭和17年 愛知県発行)「第六 史跡(その四)五、東春日井郡篠岡村 大山寺跡」(愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事 小栗 鉄次郎著 昭和三年三月 愛知県)より抜粋。

第2次発掘調査地点から見上げた女坂

第2次発掘調査地点から見上げた女坂。2018年1月このホームページ管理人撮影。

 第1次発掘調査の検討の結果、児神社境内から20mほど南西へ下がった部分にある造成面D群(満月坊地区)が後世の手が比較的加わっていない地域と考えられることから、第2次発掘調査は、造成面D群(満月坊地区)で行われることとなった。そして、造成面D群(満月坊地区)の調査と並行して、児神社境内平坦地南東部(B3)に古くから露出している4個の礎石部分の調査も実施した。児神社境内平坦地南東部(B3)は、鐘楼堂跡であったという言い伝えがある場所である。

 また、第1次発掘調査の際に作成した1000分の1地形図に造成面が明瞭に記されなかったため、この不備を補うため、塔跡(A群)・児神社(B群)・満月坊地区(D群)の3つの大きな造成面について、平板測量による200分の1の地形図作成を行うこととした。この実測によって、大規模な建物遺構の存在が可能な造成面を塔跡造成面(A群)、児神社境内造成面(B1〜B3)、参道下満月坊造成面(D1)と呼称した。第2次発掘調査は、発掘調査班と測量班の2班で作業分担をはかり、昭和50年(1975年)7月25日〜昭和50年(1975年)9月10日の期間に実施された。

第2次発掘調査満月坊地区の現在の写真

第2次発掘調査満月坊地区。2018年1月このホームページ管理人撮影。

第2次発掘調査児神社境内南東部の現在の写真

第2次発掘調査児神社境内南東部。2018年2月このホームページ管理人撮影。

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2.第2次大山廃寺発掘調査で検出された遺構

<満月坊地区(造成面D1)>

第2次発掘調査満月坊地区地形測量図

「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 昭和54年(1979年)3月発行)の中の「図版]T満月坊地区地形測量図」の上にこのホームページ管理人がペイントで書き込んだもの。

(SX18)

第1トレンチ西端で検出した石積列である。石積は、1〜2段で、高さ30cmほどあり、西へ面を揃えて、南北に長さ6mを検出した。満月坊地区(D1造成面)の土崩れを防いでいる。

(SX19)

第1トレンチで検出した柱穴状ピット群で、直径30cm前後の柱穴8個が検出された。柱穴の一部は直線上に並ぶが、建物としてはまとまらない。

(SX20)

第1トレンチ北部で検出した直径約1.5mの浅い半球形に凹んだ焼土塊である。しかし、これに関連した遺構は確認できなかった。

(SX21)

第2トレンチで柱穴状のピットが9個検出された。ピットの直径は25〜40cmで、30cm前後のものが多い。このうち、4個のピットは直線上に並び、柱間寸法は、1.2m、1.5m、2mである。しかし、建物としてはまとまっていない。

(SX22)

第1トレンチの東北約10mの位置で検出した池塘である。西岸と南岸、底部を石組みしたもので、直角三角形状をなす。東西約7m、深さ約50cmである。

(SX23)

SX22の北上方約10mで検出した湧水点である。直径約2mの不整円形をしている。

SX22と考えられる井戸

SX22と考えられる井戸。2018年2月このホームページ管理人撮影。

<児神社境内平坦地南東部(B3)>

児神社境内平坦地南東部(B3)実測図

児神社境内平坦地南東部(B3)実測図である。「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 昭和54年(1979年)3月発行)の中の「図版Y 礎石建物SB02礎石実測図」(児神社境内平坦地南東部B3)の上にこのホームページ管理人がペイントで書き込んだもの。

 児神社境内平坦地南東部(B3)で確認された遺構SB02の礎石は、大部分が火を受け、表面が赤褐色を呈していた。礎石及び根石は、南半部では地山上、北半部では盛土整地上で確認された。また、遺構SB02の北東約5mの位置で検出された石積列SX01は、直角に折れ曲がるL字状をなし、東西8m、南北2mの規模であるが、西端、南端は破壊され、石積1〜2段、高さ30cmのものが残っている。石積は、北と東に面を揃え、曲がり角には、礎石建物SB02の礎石に匹敵する大きな石が用いられている。石積列SX01の方位は、礎石建物SB02の方位と一致している。石積列SX01は、礎石建物SB02の基礎をなす盛土整地土の土留擁壁として構築されたものと考えられる。そして、礎石建物SB02の東隣にあるSK01という穴の中には、奈良・平安期の多量な瓦、土器、釘等が埋まっていた。

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3.第2次大山廃寺発掘調査で検出された遺物

<満月坊地区>

満月坊地区出土土器には、須恵器・灰釉陶器・緑釉陶器・古瀬戸・常滑・青磁・山茶碗・小皿などがある。また、生活用品の出土も多く、底外面に「満月坊」の墨書がある墨書土器が出土したことから、中世にはこの地区に「満月坊」と呼ばれる塔頭あるいは子院が存在したことがうかがえる。満月坊地区では、奈良・平安時代の遺構は検出されなかったが、奈良・平安時代の遺物が出土したことから、満月坊地区には、奈良・平安時代にも建物があったのではないかと推測されている。以下、第2次発掘調査地点(満月坊地区)にて出土した遺物の一部を掲載する。

満月坊地区出土墨書土器・山茶碗

「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 昭和54年(1979年)3月発行)の中の「図版]]]W 満月坊地区出土墨書土器・山茶碗」の上にこのホームページ管理人がペイントで書き込んだもの。

満月坊地区出土古瀬戸他

「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 昭和54年(1979年)3月発行)の中の「図版]]]U 満月坊地区出土古瀬戸他」の上にこのホームページ管理人がペイントで書き込んだもの。

満月坊地区出土土師質器・青磁その他、鉄製品

「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 昭和54年(1979年)3月発行)の中の「図版]]]Z 満月坊地区出土土師質器・青磁その他、鉄製品」の上にこのホームページ管理人がペイントで書き込んだもの。

満月坊地区出土宋銭

「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 昭和54年(1979年)3月発行)p47「挿図7 宋銭拓影(原寸)をスキャナーでコピーし、その上にこのホームページ管理人が書き込んだもの。

満月坊地区出土軒平瓦

「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 昭和54年(1979年)3月発行)の中の「図版]] 軒平瓦V・W・X・Y・Z類」の上にこのホームページ管理人がペイントで書き込んだもの。

<児神社境内平坦地南東部(B3)>

 「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 1979年発行)の「第5章 遺物 第2節 土器」のページを読むと、「SB02地区においてこんな土器が出土した。」という明確な記述がない。しかし、SB02が中世(鎌倉時代から戦国時代まで、12世紀終わりから16世紀までの間)の建物であったとする根拠の1つには、SB02地区周辺から、中世陶磁の山茶碗や小皿などが出土したからであろうと推測される。だが、発掘調査報告書は、「第5章 遺物 第1節 瓦類」のページにおいて、軒丸瓦と軒平瓦については、詳細な説明をしている。SB02が中世の建物であったということと同時に、SB02地区周辺とその東側下層にて検出された瓦溜(SK01)には、奈良・平安期の多様な瓦が埋まっていた。大山廃寺の中で、少なくともこの地区は、7世紀末から16世紀までの間の長きにわたって、寺院が壊されたり、建てられたりしてきたという証拠である。第2次発掘調査のこのような結果を踏まえて、第3次・第4次発掘調査では、児神社境内全体にわたって、どのような施設が時代の移り変わりとともに建てられてきたのかを探ることになる。以下、SB02地区周辺とその東側下層にて検出された瓦溜(SK01)にて出土した瓦の一部を掲載する。

児神社境内平坦地南東部(B3)出土軒丸瓦1

「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 昭和54年(1979年)3月発行)の中の「図版]X 軒丸瓦Tーb・U・V・W類」の上にこのホームページ管理人がペイントで書き込んだもの。

児神社境内平坦地南東部(B3)出土軒丸瓦2

「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 昭和54年(1979年)3月発行)の中の「図版]Y 軒丸瓦X・Y・Z・[類」の上にこのホームページ管理人がペイントで書き込んだもの。

児神社境内平坦地南東部(B3)出土軒平瓦1

「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 昭和54年(1979年)3月発行)の中の「図版]\ 軒平瓦Tーa・Tーb・U類」の上にこのホームページ管理人がペイントで書き込んだもの。

児神社境内平坦地南東部(B3)出土軒平瓦2

「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 昭和54年(1979年)3月発行)の中の「図版]] 軒平瓦V・W・X・Y・Z類」の上にこのホームページ管理人がペイントで書き込んだもの。

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4.第2次大山廃寺発掘調査結果

 第2次大山廃寺発掘調査は、満月坊地区と児神社境内平坦地南東部(B3)地区の2か所で行われたのだが、児神社境内平坦地南東部(B3)地区の調査結果については、第3次発掘調査の調査結果のページで一緒に述べることとする。満月坊地区においては、「満月坊」の墨書土器から、中世(平安時代末期〜室町時代、12世紀から16世紀)には、この地区に「満月坊」と呼ばれた塔頭または子院が存在し、出土遺物の多さから、満月坊地区一帯には、多くの建物群が建ち並んでいたことが推測される。つまり、「大山三千坊」と言われる大山廃寺は、伝説に言うところの「仁平2年(1152年)に比叡山の僧兵が押し寄せて一山丸ごと焼き払われた」後も、織田信長による天下統一が始まる安土桃山時代まで、三千坊とも五千坊ともいわれるほどの隆盛を極めていた。

満月坊地区にある大きな木の根っこ

満月坊地区にある大きな木の根っこ。満月坊地区は、発掘調査が行われてから43年が経過した2018年現在、このような木でおおわれている。2018年2月このホームページ管理人撮影。

 一方で、満月坊地区において、第2次発掘調査では解決できなかった問題がある。第2次発掘調査地点である満月坊地区は、地元の人々によって、「大門跡」と称されてきた。そして、第2次発掘調査によって、中世にはこの地域に塔頭や子院が建ち並んでいたことがわかった。第1次発掘調査によって、7世紀後半の白鳳文化の頃には、現在の塔跡には何らかの施設が建っていたことが判明したことから考えて、中世以前の時代にも第2次発掘調査地点には何らかの施設が建っていたことは考えられる。そして、満月坊地区において、軒丸瓦・軒平瓦などの奈良・平安時代の遺物が出土している。中世以前の奈良・平安時代、満月坊地区には、奈良朝様式の軒丸瓦や軒平瓦をのせた大門が建っていたのだろうか?その疑問を解決するためには、満月坊地区をもっと深く掘って行かなければならないだろう。塔の礎石は、山肌から3m以上下の地点において発見されたのだ。しかし、満月坊地区は、なんと大きな根を持つ木々におおわれているのだろう。満月坊地区を覆っているこれらの大きな木々を全て除去し、土を掘って行かなければ、大門跡の礎石にたどり着くことはできないだろう。大門跡が満月坊地区にあるのか確認するために、山を削り、木を切るという勇気が現在に生きる私たちにあるのかと問われたら、ない。そして、このホームページ管理人は、こう考えるのだ。大山三千坊ともいわれる大山廃寺や数多くの古墳が点在するこの大山の地域は、本当に山なのかと。

満月坊地区をおおう大きな木

満月坊地区をおおう木々のうちの1つの木。2018年2月このホームページ管理人撮影。

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