御嶽神社と御嶽信仰

光ヶ丘4丁目御嶽神社にある行者像

光ヶ丘4丁目にある御嶽神社祠右側にある行者像。2004年8月このホームページ管理人撮影。

 「御嶽」という文字は、全国的には「みたけ」と読むのが一般的である。例えば、修験者が修行する山であり、修験道の本山である奈良県吉野の金峯山は「金の御嶽(みたけ)」と呼ばれる。これに対して、江戸時代以前は、修験者が修行する山であった木曽の御嶽山だけが「おんたけ」と呼ばれる。「おんたけ」という呼び名は、中部山岳の中心的存在であった御嶽山を「王の御嶽」・「王の嶽」と読んでいたことから由来している。木曽の御嶽山を「おんたけ」と呼ぶようになったのは室町時代といわれている。

 御嶽神社は、御嶽信仰にまつわる多くの石碑・石像が祀られているところである。では、御嶽信仰とは何か。御嶽信仰は、古代シャーマニズムに見られる、岩の多い高い大きな山への信仰が、そのはじまりといわれる。即ち、木曽御嶽山をご神体とし、死後の魂のふるさととして、そこに霊神碑を建立する。そこには、父母・祖父母・遠い祖先への追慕の念がある。御嶽信仰の特色としては、集団による御嶽登山と、御座と称する、神がかりによる病気治療や占いがある。

 御嶽信仰が全国的に普及したのは、江戸時代後期である。それまで、御嶽山は、修験者の道場として、一般人の登山は許されていなかった。しかし、御嶽山を一般の人々に開放し、全国に御嶽信仰を広めるために尽力した人が、覚明である。愛知県春日井市の牛山出身である覚明は、御嶽登山道の開削に尽力した。覚明は、御嶽登山道の開削途中で倒れたが、その意志は住民に受け継がれ、覚明の死後、江戸の修験者である普寛によって、新しい登山口が開かれた。御嶽信仰の全国的な普及に貢献した覚明・普寛の両行者は、御嶽山を一般の人々に開放した祖として、石碑には、必ず、現存している。

 江戸時代の終わり頃には、御嶽信仰はかなり拡大し、全国各地に多くの講社(同じ信仰を持つ団体的な組織)ができた。しかし、明治維新以後、政府が「神仏分離」を打ち出したことにより、大混乱になった。当時の信仰は、神道と仏教の混同したものが大半であった。この結果、多くの講社は、里宮の御嶽神社から離れていき、各地で様々な教団が誕生し、信仰形態も複雑に変わっていった。

 このような講社の分散を嘆いて、講社の団結・結集を図ろうとしたのが、下山応助であった。彼は、明治6年(1873)に御嶽教会を設立し、その後、そこから独立して、現在奈良市に本庁をおく御嶽教を立てた。その後、昭和20年(1945)8月に太平洋戦争が終わり、日本の民主化とともに、宗教活動が自由化された。その結果、御嶽神社を主体にした御嶽信仰が復活し、黒沢里宮に本庁をおく木曽御嶽教も設立された。現在、小牧市内においても御嶽信仰は続いている。しかし、規模はかなり縮小されており、信仰形態も様々である。

参考文献

「小牧の文化財 第17集 小牧の御嶽信仰の石造物」小牧市教育委員会 平成11年3月発行。

御嶽神社