3.お盆休みPTA活動室にて

 PTA副会長から電話があったのは、夏休みの始まる少し前だったという記憶がある。おやじの会の親睦会(飲み会)で、私の話(「2.光ヶ丘中学校おやじの会」のページ参照)を聞いて、「光ヶ丘中学校の中に篠岡古窯跡群の資料館を作る。」ということに、すごく興味を持ったということだった。「しかし、現在の光ヶ丘中に資料館のようなコーナーを作る余裕はない。ただ、PTAで、今年の11月に地域ふれあいフェスティバルというイベントを企画していて、そこで、篠岡古窯跡群の郷土史展示みたいなものをやってみたらどうか。一度会って話をうかがいたい。」

 そして、PTA副会長と日程を合わせて、途中、台風などで日程が延びて、顔合わせができたのは、電話があった1ヵ月以上後くらいだった。その間、私は、郷土史展示の主旨や展示構想・展示日程を考えてパソコンで郷土史展示の計画案を作る余裕ができた。今から思うと、展示の計画案を作ったということが、顔合わせをただのおしゃべり会にしなかった一番の理由だったと思う。

 PTA副会長と初めて顔を合わせたのは、お盆休みだった。その時、地域ふれあいフェスティバル担当の教頭先生はお盆休みで学校にいなかったので、郷土史展示の話し合いは、PTA副会長と二人で、PTA活動室で行われた。私の郷土史展示計画案を読んで、PTA副会長は、「この計画案には、遺跡から出土した本物の遺物を展示するとありますが、これは、校長先生も言われたことなのですが、本物を展示すると、もし、紛失したり壊れたりした場合、どう責任を取るのかという心配がある。本物の遺物を展示するというより、遺物の写真をとり、写真展のようにパネルを展示するということにしたらどうですか。」と言った。

 その時私は、正直に言って、「本物を見るからおもしろいのに、出土遺物の写真を見たって、感動しないじゃん!」と心の中では思っていた。しかし、確かに、「責任問題」と言われると、今までの人生の中で、責任と言うものを取ってきたことがない私は、責任のとり方と言うものもわからないので、「ここでは、一旦、写真パネルを展示して、篠岡古窯跡群というものを知ってもらうことの方が先決かな。展示そのものの話が消えてしまってはどうしようもないし。」という判断が働いた。

 結局、篠岡古窯跡群の出土遺物を撮影して、発掘調査当時の写真と現在の現場写真と共に、写真パネルにしてそれを展示するという方向で、話は固まっていった。あとは、誰が、いつ、どこで、出土遺物の写真をとり、発掘調査当時の写真を集めるのかだが、こういう話は、教頭先生なしではできない話ということで、一度教頭先生と会って話をしようということになり、その場は解散した。

 以上が、私が覚えている範囲内での、2003年夏のPTA活動室での話だ。PTA副会長は、大学教授の仕事をしておられる方で、PTA活動も仕事の一部だと言っておられた。教育関係の職業について、まじめに仕事をしている人はそうなんだと思った。普通、学校の教員などでも、仕事で他人の子供に教えるのはいいが、自分の子供を教えるのは恥ずかしくていやだと言う人が多い。家庭と仕事を一緒にするというのは、なかなかできないことだと思う。私は、篠岡古窯跡群の出土遺物を写真撮影し、他の写真と共にパネルにして展示するという方向で、地域ふれあいフェスティバルの郷土史展示の計画案をパソコンで作り直して、教頭先生と話をする日を待っていた。