5.小牧市教育委員会文化振興課

 平成15年(2003年)当時の小牧市役所南庁舎2階には、小牧市教育委員会のそれぞれの課が横一列に並んでいる。また、それぞれの課の間には、別に仕切りもなく、私が文化振興課の中嶋さんと話している内容を学校教育課の課長が聞いているといった感じであった。小牧市役所の第一印象を率直に言うと、ほのぼのとした感じで、私がパートとして勤めている会社とはだいぶ雰囲気が違う。約束の時間より5分ほど遅れて文化振興課の受付に着いた私を見て、文化振興課の中嶋さんは手を振って「田中さん、こっち、こっち。」と、学校教育課の中にある打ち合わせ用の机に私を座らせたのだった。

 私が、文化振興課の中嶋さんとの打ち合わせに持参していったものは、郷土史展示の計画案2部と東部市民センター図書室で借りた本3冊と篠岡古窯跡群発掘調査報告書5冊だった。東部市民センターで借りた本というのは、「日本陶磁全集」(昭和55年中央公論社発行)3冊で、篠岡古窯跡群から出土した遺物の写真が載っているものを持参した。「日本陶磁全集」には、篠岡古窯跡群出土遺物の中で、自分が、このような遺物の写真が欲しいというものをピックアップして、付箋を付けておいた。篠岡古窯跡群発掘調査報告書には、発掘調査当時の写真で、自分が集めたい写真をピックアップして、付箋を付けておいた。

 まず最初に、私は、郷土史展示の計画案を中嶋さんに渡して、計画案の説明をした。私の説明を聞いてから、篠岡古窯跡群の遺物の写真と発掘調査当時の写真について、「遺物の撮影と発掘調査当時の写真を集めることはおれがする。」と最初に言い出したのは、中嶋さんだった。そして、どのような遺物と発掘調査当時の写真がほしいのかと聞かれたので、持ってきた本の付箋のついた部分を見せながら、自分のイメージに描いていることを説明した。

 まず、遺物の写真については、子供と一緒に小牧市歴史館に行った時に、子供たちが緑釉陶器を見て、「こんなものが家が建つ前の土地から出てきたなんて、とても不思議な気がする。」と言ったことを紹介して、なるべくきれいなものを撮影してもらうことをお願いした。また、光ヶ丘中学校の文化祭で展示を行うので、光ヶ丘中学校区内の発掘調査で出土した遺物を中心に撮影してもらうようにお願いした。そして、「1つの画面の中に1つの遺物にするのか、1つの画面に2〜3個の遺物を並べるのか。」と聞かれたので、1つの画面に2〜3個の遺物を並べて撮影してもらうようにお願いした。できるだけ多くの遺物の写真が欲しかったからである。

 また、発掘調査当時の写真については、光ヶ丘中学校区内で行われた発掘調査中心にお願いした。更に、発掘調査が行われた当時すでに建っていた建造物(例えば、給水塔や、スカイステージ33など)が写真の中に写っていると、古くからこの土地に住む人々や、ニュータウン分譲開始直後からこのニュータウンに住んでいる人々が、懐かしいと思うのと同時に、発掘調査だけの風景よりも身近な感じが増すと考えて、建造物などまわりの風景がうかがえる発掘調査当時の写真を集めてもらえるようにお願いした。

 中嶋さんは、これらの私のお願いを快く聞いてくださって、写真撮影の期限の話になった。10月は3連休が2回もあるので、写真を全て光ヶ丘中学校に送信するのは、かなり文化祭ぎりぎりになるとのことだった。そういわれてみると、月17日でパート勤務をしている私も、3連休が2回もあるということは、平日の休みの日がそれだけ少なくなるということだった。その少ない休みの中で、郷土史展示の活動日程をたてなければならず、私は、ますます、不安でいらいらするのだった。

 ところで、このとき、私は、中嶋さんから注意を受けて、今でもそれを守っているということが2つある。1つは、学校がいやだと言っていることに対して、学校側に無理にやらせようとしないことである。私は、中嶋さんと会ったときまでは、まだ、「私としては、本物の遺物を持ってきて、展示したいのですが、遺物に対する責任問題とかいろいろあって、できないんですよね。」とぐちを言っていた。そのような私に対して、中嶋さんは、「遺物の破片は保管しきれないほどいっぱいあるので、別に1つや2つなくなったって、いいんですけどね。ただ、学校がだめだと言っているものを無理やりやらせるということはできないんだよ。学校がだめだと言ったらだめなんだよ。」と言われた。このとき以降、私は、「本物の遺物を展示したい。」というぐちを言わなくなった。要するに、学校の施設や備品を学校から借りて展示を行う以上は、学校側とは円満にやっていかなければならないということだ。郷土史展示は、自分のためにやるのではなくて、学校の行事の一環としてやるということだ。中学校に本物の遺物を展示することは、また、いつか機会が訪れるまで、私の胸の中にしまっておこうと思った。

 もう1つは、「篠岡古窯跡群」という名前である。中嶋さんに会うまでは、私は、計画案も含めて、全て、「桃花台ニュータウン遺跡」という名前を使っていた。中嶋さんは、「桃花台ニュータウン遺跡という名前にするからには、野口・大山の古窯跡は除外するのですね。野口・大山は桃花台ニュータウンではないのですから。」と言うのだった。私は、「光ヶ丘中学校で、郷土史展示を行う以上、同じ中学校区である野口・大山の遺跡ははずせない。」と言った。すると、中嶋さんは、「それでは、桃花台ニュータウン遺跡という名前を使うのはやめなさい。私達は、篠岡丘陵から出土した遺跡のことを篠岡古窯跡群と呼んでいる。これは、私が発掘調査報告書を書いた時にも言われたことなのですよ。」と言った。このとき以降、郷土史展示に関することは全てにわたって、「桃花台ニュータウン遺跡」という名前を削除して、「篠岡古窯跡群」という名前を使用することになる。

 最後に、中嶋さんは、「私は、篠岡古窯跡群の遺物や発掘調査当時の写真を中学校に渡すのではなくて、田中さん個人に対して渡すのですから、田中さん個人としてしっかり責任をもって管理してください。」と言われた。私は、「篠岡古窯跡群の遺物と発掘調査当時の写真をどうぞよろしくお願いします。」と一礼して、文化振興課を後にした。その後、光ヶ丘中学校に行って、教頭先生に、文化振興課で中嶋さんに会ったことについて報告した。そして、篠岡古窯跡群の遺物と発掘調査当時の写真が、文化振興課から光ヶ丘中学校に送信されてきたら、きちんと対処してもらえるようにお願いした。